そして、ようやくわかったことを

わたしはじぶんにおもったこといがいをかいてはいけない
ほかのひとについてげんきゅうしてはいけない
なにがあろうとじじつをいっぱんかするようなことをしてはいけない
かんがえることがじぶんのそとにでてはならない
わたしのかんがえることはわたしのなかでかんけつしていなければならない
たとえそれをどんなにかきたくてもぜったいにかいてはならない
それはおもしろくないことなのだからなにがあってもかいてはならない
なによりもそれはごうまんなことだからかいてはならない
ぜったいにだ

そしてもうひとつのとりきめを
なげくときいがい、ここにかくのはやめよう。
あるいはそのないようが、かなしいことをはきだしたものだったとしても、
それでも、わたしがたのしみながらかいているのなら、それをここにかくのは、いや、ここでなくとも、ありとあらゆるひとのめにふれるようなばしょにさらしてしまうのは、ぜったいにやめよう。
こころからのなげきでない、ほかのひとにみてもらうためにつくろったなげきなんて、そんなものはなげきではないし、そもそもいくらなげくかたちにしたところで、こころがなげいていないときにいくらなげこうとしたってできるわけがない。

まあどうせ、わたしがいくら、「こうしよう」とおもって、じぶんにせいやくをかしたところで、つぎのひのまったくちがったえたいのしれないべつのわたしに、今の自分のやりたい事にのっとって、かきけされてしまうんだろうけど。

ああ

傲慢な人間にだけはなりたくない。
これは私が傲慢な人間である事の裏返しなのだ。
それなのに少しでも何かを楽しむと私は傲慢になってしまう。
傲慢な私を見ていても誰もそれを感じ取らないのかもしれない。あるいは言わないだけなのかもしれない。
しかしそういう時の自分は、全くもってつまらないなのものだというのは確かなのである。
少なくとも自分から見たならば。
ああ、寝てしまおう。それがいい。

なに、を

キーボードに手を付ける前に、散々悩んで、1時間は眠れずに悩み通していた私は、一体何に対して悩んでいたのかと、今思えばまったくわからないのです。
私は多分、「愚痴を書いた」という形式さえあれば、多分悩んでいたことは、今日の晩ご飯の味噌汁がちょっぴり塩からかったことだったとしても、別になんでもいい気がするのです。
女の子になりたい、そうも思っていた気もします。大学に合格できる気がしない、そうも思っていた気だってします。
でも何か自分のことを吐き出そう、そう決心してみると、その前に何を思っていたのかはまったくもって忘れてしまうし、そもそも何に悩んでいたのかと、そんな事すらもまったくわからなくなってしまうのです。
確か私には、今の日記を書く前の私には、人生の壁が、数えていた限りではたしか3個も4個も立ちはだかって、きっと乗り越えることなんて永遠にできないのだろうと、そんなふうにおもっていた、そんなはずなのです。なのに、そのなかのひとつをかいてしまったいまでは、のこりのふたつみっつは消え失せてしまって、そして書いた一つですらも、私の中で他愛もない、どうでもいいことと化してしまっていて、最早、ああ、どうすればいいのか。
これを書いていてわかったことがあるのです。きっと人生に深く深く絶望して真っ暗な未来しか思い浮かばない、そんな日には、まず「絶望しか見えない」という前提があって、それからいろんなモノが絶望的に見えていくのではないか、そして逆に、「希望しか見えない」という前提を持っていたなら、ありとあらゆるものが輝いて見えてくるのではないか、そう思うのです。だからきっと、私がまったくもって無根拠に楽観的になったり悲観的になったりフラフラと揺れ動いてしまうのは、きっとそういうところに原因があるのだとおもいます。
そんなふうに、その場その場の欲求のみで、短いながらも16年の人生を過ごしてきたものですから、いや、私が人生という物について本当の意味で真剣に考え出したのは、つい1年も経たない頃の事なのでしたから、本当の意味で「生きた」と呼べるような期間は、ひょっとすると1年も無いのかもしれませんが、どちらにせよ、私には「習慣」という概念が全くもって理解出来ないのです。私にとって何かをするという事は「やりたいと思う」か「やりたいと思わない」かの二通りによってしか起動される物でなく、そして、当然ながらこの動詞の前には、『今の自分が』という主語が省略されているものですから、自分がフラフラと移り変わるような私の行動は、また同じくしてフラフラと移り変わる行動にしかならないのです。
というか、私には、そもそも世間一般に「習慣」なんて呼ばれているような物が、果たして私以外の人間にも存在しているのだろうかと、そう疑念を抱かざるを得ないのです。人間って機械みたいに何も考えないでスケジュール表通りの行動を取り続けられるような存在では決してないですし、何も考えずにただ歩いているような時間ですら、ぼーっとしているようにみえて、実際には目の前の風景を認識して、どちらの方向に歩めば目的地にたどり着くのだろうか、あのコンビニにちょっと寄って何か食べ物でも買おうか、ああ、こうしている間にも目の前から人が近づいてきている、衝突しないように避けなければ、と、実にいろいろなことを考えながら生きていると思うのです。だとすれば、まるで、なんにも考えなくてもいつの間にか同じ行動を毎日繰り返せる状況が出来上がっているかのようなニュアンスの伴った「習慣」なんて単語の表すものなど、四六時中思考し続けざるを得ない実際の人間には、備わりようがないのではないだろうかと、そう思うのです。
それでも、人間が、毎日同じことをしようと、本当に心の底からそう思えるのだとすれば、それが理性と本能に則った思考の末の結論なのだとすれば、言い換えれば、「この行動をしたい」と、本能がそう訴えかけてくるのであれば、多分それ、「習慣」じゃなくって、「中毒」って呼ぶんだと、私はそう思います。



たまたま習慣についてとある人から助言うけた日にこんな事書いたらアレですけど、disではないです。
さあ、かきおわったのだ、ねよう。

たすけ

助けてください。もうだめです。なにもできるきがしないのです。こんなときはいつもこうなてつぃまうのです。なぜなんでしょうか。私は幸せになるために、あるいは一時的にでもいいから、楽しくなるためについったーをやっているはずなのに、やればやるほどあまりにも苦しくなる一方であまりにも辛すぎてどうしようもありません。お願いだからなんでもいいからはきださせてください。私の頭の中はもうあまりにも限界過ぎて現実を現実だsと認識無くなる程度にげんかいがきていてもうどうしようもないのです。ああ・・・・あああああああああああ。ああ。つらいです。
私はどうも人格に難があるように思えます。これは性格がどうとかそういう問題ではなく、そもそも性格よりももう少し根源的に、そして手のつけようがないような問題の類だと思えるのです。そしてきっとこれは、人間なら、少なくとも社会というものの中に存在している人間なら絶対に多少なりとも抱えている問題のはずなのですが、自分の人格があまりにも多すぎて手のつけようがないのです。朝起きたとき、駅までの自転車を漕いでいるとき、電車に乗っているとき、通学路を歩いているとき、授業が始まるまでぼーっとしているとき、数学の授業をうけているとき、休み時間のとき、英語の授業をうけているとき、その次の休み時間のとき、中略して、昼ごはんを食べているとき、変えるとき、また電車にのるとき、予備校に向かっているとき、予備校のエレベーターの前でいつもながらどぎまぎするとき、自習室に向かうとき、そして入ったとき、その中で勉強していて、それから帰るときまでも、いついかなるときであっても「これが自分なのだろう」と思えるような瞬間が、私にはまったくもって一秒たりともないのです。あるいはその瞬間瞬間においては「これが自分だ」と思っているのかもしれません。それを自覚していながらも、全ての時間における自分の人格があまりにもかけ離れすぎていて、この自分すらも恐らくは30分もすれば消え果ててしまうのだと、そういう事も同時に自覚しているのです。
私は、少なくとも、今日起きるまでは、学ぶ機械になるのだと、そう決心して、3日目だったはずなのです。そして今日は、もう人生どうしようもないものだ、いっそ適当に死んでしまおうと、そう決心した、1日目の夜なのです。そして明日は、きっとまた、学ぶ機会になろうとするか、あるいはもっと別のものになろうとする1日目であって、毎日毎日の自分が、まったくもって別人に思えて、あるいは一日どころか、五分と立たずに消え失せてしまって、もう自分には、何をどうすればいいのか、まったくわからないのです。
これを書いているのはいったいだれなんでしょう。
勉強すると、自分にはなんでもできる、なにをやったってできる、人生楽しいものだ、きっと自分がなりたいと思えるような存在に成ることができるだろう、いや絶対にできるのだろう、そう思えてくるのです。でもインターネットをやっていると、正確に言えば、恐らくは、自分の根源的な部分というものに触れてみると、自分はなんて俗物的で、高尚の欠片もなく、大成する見込みもなく、恐らくはきっと一生幸せになることなくぐじゅぐじゅしながら腐り果てて死ぬ様な類の、どうしようもなく救えいようもない人間なのだと、あまりにもそう悲痛に感じているのです。そしてそれはまったくの無根拠なのですが、同時にまた、私が自分はなんでもできるのだと、そう何もかもをポジティブに思える時でさえ、これもまた全くの無根拠なのです。
自分の人格が分からないのです。そんな事はきっと、社会に生きている人間なら、少しは、きっと、感じていることなのです。でも自分は、その幅があまりにも大きすぎるように思えます。インターネットでかりそめの自分をつくりすぎてしまったのです。自分の中の人格の幅を自分で広げてきたのです。それがあまりにもよくなかったのです。自分がすべてわるいのだとそう自分でもわかっています。
なにをうらめばいきていけるんだろう。
プロフィール

Author:ルーミア厨
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