自由とか平等とか

これから僕は思想的にとんでもなく危険なことを書く。結論だけ読めば「何言ってんだこいつ(笑)」というレベルの幼稚な締めくくりだし、あるいは途中経過を読んでも依然として「何言ってんだこいつ(笑)」というレベルのあまりにも安易な推論である。きっとこの考え方は、なまじっかかじった奴が陥りやすい典型的な誤謬である。まあそれでもここまで読んでしまったのだ、どうか最後まで読んでほしい。そして嘲笑って欲しい。
僕は世界の歴史について、あるいは世界の思想の変遷について全く知らない。だから僕はきっと今からとんでもない事を書く。アパルトヘイトを代表とする黒人差別は近年撤廃された(少なくとも表面上は)。あるいは男女平等の価値観が急速に世界規模で広まっている。しかし僕は思うのだ。平等は本当に正しいのだろうか、それを広めて本当によいのだろうか。
確かに、結果的に平等の理念のお陰で人々は幸せになったかもしれない。実際、僕もその平和な世界を享受する人間の一員である。だとしても、だとしてもだ!それは結果的に僕やいろんな人が幸せになったというだけで、「平等を実現したその瞬間に生きていた人が幸せになったかどうか」とは必ずしもイコールにならない!だってだ、だってだよ!小さい頃から「黒人って奴は人間じゃねえんだ」とか「女性なんて男性より劣った存在なんだ」とか言われてさ、「へえ、そうなんだ」って素直に思いながら育っちゃった人とかどうすんだよ!虫ケラのように忌み嫌ってた黒人とか下等生物としてみなしてた女性とかがいきなり職場にズカズカと踏み行ってきて「今日から私は貴方と対等です^^」とか平然とぶちまける、僕が当時の人だったらどれほどの怒りと不条理を感じられたのか想像もつかない。一度作られてしまった価値観と真っ向から対立する物を「納得」のレベルまで十分に理解する事は訓練しないと非常に難しい。僕はエクストリームスポーツとしての議論を通じてわりかしそれに慣れてしまったけど、僕みたいなキチガイじゃない大勢の純朴な人々はそうではない。社会によって作られた価値観が社会の手によって崩壊させられる悲劇。そこに一体どれほどの当惑と動揺があるのか。
僕は平等が世界を支配する時代に生まれてしまった。だから僕は差別的な感覚をあまり持ち合わせていない(念の為弁解しておくと、僕は女の子を病的なまでに大好きだし、黒人の人にだって嫌悪感を覚える事は一切無い)。しかし一方で、差別的な価値観が世界を支配していた時代も、確実にあった。むしろみんなが仲良く平和にやっていける時代なんて珍しいのだ(例えそれが表面上だとしても)。だから、だからこそ、今の世界の潮流は過去の人を大勢不幸にしたと考えている。制度上の差別は概ね撤廃されたし、きっとこれからも撤廃されていく。それは正義だと叫ばれる。人権という虚構の観念を盾にして彼らは自らの行いを正当化する。そういった行動は常に被害者の目線で語られる。一方で、彼らは何故だか加害者の目線に立って物事を考えようとはしない。僕には不思議でならない。彼らの理念に基づけば、「どちらも同じ人間なのだ」。なのに彼らは、被害者には肩入れして、加害者には蔑視の目を向ける。おかしいじゃないか、そんなの。誰かが得をするということは、誰かが損をするということだ。被害者の権利が強まるということは、相対的に加害者の権利が弱まるということだ。彼らは人を傷つけている。間違いなく不幸にしている。それも、何の罪のないはずの人々を。彼らが黒人を差別したのは彼らが悪かったのか?彼らが、あるいは私達の先祖が女性を差別したのはその人達の責任だったのか?僕にはどうしてもそうは思えない。じーちゃんもとーちゃんもにーちゃんもお隣さんもお向かいさんも「女性って奴は男性より下なんだ」って公然と言いふらせるような世界で、それどころか「そうだそうだ!」「いいぞー!」と賛同の声すら上がってくる世界で、「でも、本当は人間みんな平等なんだ!」なんて心の中でただ独りひっそりと思い続けられるような奴、よっぽど異常じゃないのか。僕はそんな奴居たらキチガイだと思う。本当にどうかしてると思う。社会の影響とか無視しすぎだとおもう。どうやったらそういう風になれるの、すごいうらやましい。まあとにかくだ。
多くの人々は生まれ育った文化が与えた世界観の中でただ生きているだけだった。それがどんなに偏見に満ち溢れた物だろうと、本人には何の責任もない。にも関わらず、彼らの価値観は非進歩的だとか野蛮だとか時代遅れだとか偏屈だとか言われて糾弾されている。似非自由主義の欺瞞である。自称自由主義者は弾圧的な思想を弾圧する。擬似平等主義者は平等主義で無い人間に平等な態度で接しない。一体彼らが何をした。ただ生まれただけではないか。世界観が崩壊した苦しみを貴様らは肩代わりできるのか。差別が加害者の側による世界観の押し付けであったように、平等という概念もまた同じくして被害者の側による世界観の押し付けではないのか。僕には分からない。この平等という聞こえの良い名を冠した強引で一方的な価値観の押し付けを全世界的に堂々と行うという暴挙にどうして誰も疑問を呈さないのか全く分からない。なんでみんな人の気持ちをわかろうとしないんだ。被害者の気持ちは痛いほど分かる癖に加害者の苦悩を知ろうとしないんだ。加害者にはそうしてもらう権利すらないってのか。それこそ弾圧だし差別じゃないのか。お前らは強姦魔の気持ちを考えたことがあるのか。犯罪者の手記なんて読んでいると思わず目を背けたくなる。自分の中にある歪な衝動が日々強まっていき、最終的に自分を人間ではない何者かに染め上げてしまう恐怖。世界が崩壊する恐怖に駆られて綴られた手記から浮かび上がる人物像は、正しく善良な市民そのものである。彼らだって僕らと同じ人間なんだ。僕達は今一度、加害者に目を向ける必要がある。差別的な思想を弾圧された純然たる被害者の声に、もう一回耳を傾ける必要がある。彼らの声は、間違いなく悲痛そのものだ。それはかつて差別を受けていた人々の物と、ほんの寸分も違わない。

久方ぶりの

もういい、内容なんてどうでもいい。読めるかどうかなんてこの際どうでもいい。恨みを書く、僕は今から恨みを書くのだ。それがいい。この世に対する怨嗟の声をひたすらに書き綴るのだ。今前の文章を打っていた時に「ひたすら」で変換しようとしたら「只管」と表示された。これ「ひたすら」って読んだのか。僕は今まで「しかん」と読んでいた。間違っても視線を用いて女性を精神的に陵辱するような非人道的で性差別を助長するようなおぞましい行為の事ではない。「只管打坐(しかんだざ)」という言葉がある。曹洞宗のスローガンである。僕はここで「只管」という言葉を覚えたので、読み方は今までずっと「しかん」だと思っていた。くれぐれも緊張の反対語の事ではない。僕は「只管打坐」という言葉が「ひたすら座禅に打ち込む」という意味だとは聞いていた。「ひたすら」の意味は流石にわかるし、「座禅」の意味も(それが曹洞宗において何を意味するのかは知らないが)ポーズくらいはイメージが出来たし、「打ち込む」という言葉の意味だって当然理解していた。あるいは「只管」の「只」の字の訓読みが「ただ」と読むことも気づいていたし、だからこそ「只管打坐」という言葉が「ただただ(ひたすら)座禅に打ち込む」という意味である事に何の疑いも持っていなかった。そう、持っていなかった。これこそが僕の最大のミスであり、恥であり、この半年の中の最大の汚点であった。僕は「只」も「打」も「座」も分かっていた。いや、僕の知識が正しいかどうかなんて証明の仕様はないけれども、一応納得のできる理屈を自前で用意してはいた。ここまで十分な備えをしていたのだから只管打坐という言葉には完璧だと思っていた。只管打坐の事なら何でも聞いてくれ、と言わんばかりの自信を持っていた。スペシャリストを自負してすらいた。ところがだ、ここまで入念な準備をしておきながら、僕はたった一箇所について注意を怠ったのだ。そう、「管」である。「打座」を「座に打ち込む」と訓読まがいの読み方で理解してしまった僕の傲慢さが、あるいは「只管」の「只」という漢字の訓読みを知っていたという中学生レベルの僕の思い上がりが、僕に慢心を生んだのである。その慢心によって、僕は罰を受けた。世界を影から支配している資本主義マフィアによって天誅が下ったのである。あるいはそれは学問の神様による死刑宣告だったのである。努力を厭う怠け者には死を、疑問を持たぬ愚鈍なる凡夫には天罰を。それによって受けた罰こそが今こうして書いている記事の一部であるし、今僕が指を走らせている理由でもある。そう、僕は「只管打坐」という四文字の中で、「管」という一文字に関してだけ、何の注意も向けなかったのである。そんなたった一つの慢心のせいで、僕があれほど苦労して創り上げたお手製の只打坐理論は、GoogleIME先生の純真無垢な予測変換により一瞬にして崩れ去ってしまったのだ。いや、「打座」の部分は今のところ崩れていないので「只管」の部分が崩れてしまったと言うのが適当なのかもしれない。そう、「管」にさえ、このたった一文字にさえ警戒心を緩めなければ、僕は電子辞書で広辞苑を引いて「只管」の読み方が「ひたすら」である事くらい、とっくの昔に気付いていたはずなのである。なのに僕は気付けなかったのである。そして今僕はこうして記事を書いている。これは罰である。天誅である。因果応報である。必罰である。『花に水をやるように罪には罰が要る』。僕は怠惰という罪を犯した。疑問を放置するという学問の世界における禁忌を犯した。教会の没落に端を発して発生した人間中心主義。人間中心主義による自然の対象化。対象化を軸にして生まれた実証科学。そして今、実証科学が創り上げた恩恵に浴して世界は動いている。実証科学は「なぜ」を放置することを許さない。人間様の理屈にそぐわない所があれば徹底的に対象化して作業仮説を立て実験を行い法則を導きだす。実証科学が無かったらこれほど物質的に豊かな時代は未来永劫誕生することは無かった。その科学の精髄であるところのパソコンやインターネットを使って僕は自我を確立している。あるいは確立し続けている。僕が世界に不誠実になれば、世界も僕に不誠実になる。僕は不誠実になった。世界に嘘をついた。「管」の意味を調べないという怠惰。そのせいで僕は今まで「只管」の読み方が分からなかったのだ。嗚呼、ごめんなさい神様、実証科学の神様。分からないことをそのままにしてごめんなさい。こんな私を赦してください。お願いします。




無茶苦茶過ぎる。
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Author:ルーミア厨
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