過去の自分が投影されたまま像に変化が起こらない鏡

私はものぐさだから、タグをつけなくなって随分経つけれど、「ふつう」のタグに沿って昔の自分を見返していた。
恥ずかしい記事も本当にいっぱいあるけど、これは吐き出しておいてよかったな、って日記もかろうじて10個に1個くらいはあった。
でも一番印象に残ったのは、私がどの日記でもほぼ一貫してですます調を使っていることだった。それも、相当に女の子の成分がキツい奴を。
今の私は、一人称が私なだけで、別に女の子みたいに日記を書いているわけじゃないし、特にそういう日記が書きたいわけでもない。
私がこういう精神状態に落ち着いたのはいつ頃だったんだろう。最近は女の子になりたくて死にたくなる事も随分減った。
昔の私の方が魅力的だったのだろうか。今の私の方が落ち着きがあるし、病んでいると思われたくて自分の疲れ加減を誇張して外に出すことも無くなったから、付き合いやすくはなったと思うのだけれど。かわいいとかかわいくないとかじゃなくてぐらぐらして不安定になった精神が好き、という人もいるかもしれない。なにせ、私がそうだから。それは今でも全く変わらない。

それから、過去の日記を読み返しても、これじゃあいいとこ人生に疲れた人か、構って欲しいだけのメンヘラにしか見えないと思った。直截に言って、本当は苦しくもなんともないのに、誰かに心配して欲しくて、嘘を紡いでいる、そんな印象。
でも、あの日記の大半は、臓腑を抉るような苦痛にのたうち回りながら書かれたもののはずなんだ。私の記憶だけはかろうじてそのことを知っている。
自分が今どれほど辛いのか、苦しいのか、それを他人に伝える術は、少なくとも私には無い。時間が経っているとはいえ、自分にすら伝わらないのだから他人になんて伝わるわけがない。酷く絶望的な話だけれど。

嘘も百回言えば本当になるというのは、この言葉が意味する正確なところは分からないけれど、暗示が現実になってしまうというのは実際に起こることで、メンヘラとか構ってちゃんとかって呼ばれる人達は、多分、最初は辛くもないのに構って欲しいから「辛い」って言ってたんだけど、そのうち言霊に呪われて本当に辛くなっちゃったような人達で、でも文体なんてそう簡単には変わらないから、一番最初に使っていた辛さだけが不自然に強調されてる嘘つきの文体が抜けてくれない。最終的に、自分は本当に辛い思いをしているのに、その事をどんなに書き殴っても、周りから冷ややかな目で見られる(私の場合、幸いにもみんな優しい人で、そういう事はなかった。おかげで時間はかかったけれど大分快方に向かっている。感謝してもしきれない)。「私は本当に辛いのにみんなその事をわかってくれない」という人がいたら、その人の言うことがどんなに胡散臭く見えても、多分その人は本当に辛い思いをしている。でも傍目に見たらその事はわからない。

みんながこんな人間に長い間付き合っていてくれたのかと思うとあまりに申し訳なくて、そして嬉しくて涙が出てくる。本当にありがとう。これからもよろしくお願いします。

ぼんやりとした不安

最近酷く自分の死を意識するようになった。
私は昔からゲームをクリア直前に辞めてしまうことが多かった。あるいは何かどうしようもない手詰まりが発生して攻略サイトを見た瞬間に著しい虚無感に襲われて二度と起動しなくなってしまうこともあった。ヘルシングの最終巻はその1個前の巻を買ってから1年くらい経ってようやく買う勇気が出た。私は何かが終わってしまうことが途方もなく嫌なのだ。いつまでも終わらない何かが欲しい。そしてその中に自分の全てを委ねて悠久の時を過ごしたい。そういう意味でStarcraftIIは終わりのない最高のゲームだ。
ここのところ自分の人生が今この瞬間にも終わりを迎えようとしているような錯覚にたびたび襲われている。私はまだ18だ。死ぬまで多分あと62年はある。判断を下すにはあまりに早い。理性では分かっている。自分の人生に見切りをつけてしまうには時期尚早過ぎる。それでも恐怖は止まらない。自分の人生が何かとても価値のないもののように思えてくる錯覚がしっかりと私を掴んで離さない。重要なのはその中に実際に価値が存在しているかじゃない。価値があるように見えるかどうかだけが問題なのだ。
ああ。死にたい。死んでしまいたい。多分私が幸せだったのなら、何の問題もなく人生を生きることを許されていたのなら、こういう想いに囚われることはなかったはずだ。不条理が私の憂鬱をかきたてる。辛いのはみんな同じだなんてとんでもない発想だ。確かに実際に計測してみたら皆同じ程度の肉体を持っていて、皆同じ程度の貧困に喘いでいるのかもしれない。でも精神は違う。自分が今置かれている状況を当然の物とみなしているのか、何者かによって無理やり押し付けられたものとみなしているのかでは捉え方が大きく違うし、それは実際に疲れ方に影響を及ぼしてしまう。死にたい。死にたい。どうして私だけがこんな目に。
話の脈絡が滅茶苦茶になってる。眠い証拠だ。寝るべきだ。寝よう。

承認欲求

昨今私たちが承認欲求とか呼んでいる物は、人類学によると人間をして人間たらしめる最も根源的な要素であるらしい「交換に対する渇望」の一種のありようなのではないかと考えた。
物質的に豊かな地域に生まれた私たちは、使い道のない時間を大量に抱えているので、余った時間を交換の媒体として無償で世界に送り出す。それは日記であったり、小説であったり、ホームページであったり、絵であったり、動画であったりするだろうが、いずれにしても、それは見ず知らずの他人に向けられた贈与である。
ここで重大な問題が生じる。その問題は多分、本当につい最近まで貴族階級や芸術家のような一部の人間の間でしか生じ得なかったはずの問題で、近代の文明がその対象を一般市民である我々にまで拡張してしまった問題であり、おそらくは今日の我々が承認欲求と呼んでいる問題である。
どれだけ世界に自分の存在を贈与しても、いつまで経っても「お返し」がこないのである。
インターネットという世界は、あまりにも膨れ上がりすぎた。現在までに発生させられたホームページの量はこの世の全ての暇人の全ての時間を使っても到底処理しきれない量になっている。今私が新しいホームページを立ち上げたところで、何も宣伝をしなかったらきっと私が死ぬまでかかってもたったの一人すらそのホームページに訪れることはないだろう。いくら小説を書いても、いくら日記を書いても、いくら絵を描いても、いくら動画を作っても、誰も見てくれないし、誰も感想をくれないし、誰もお返しをしてくれない。
別に自分が作品を作るのにかけた時間と相手がお返しを作るのにかけた時間が釣り合っている必要はない。何十時間もかけて作った動画に、たった一言、「面白かったです」とコメントがついただけで満足してしまういう人も一杯いるだろう。というより、自分が贈与した物と相手の返礼する物が等しい価値であっては絶対にならないのだ。何故なら交換した物同士の価値が本当に等しいのだと分かってしまったらそこで交換が途切れてしまうからだ。職人が手間暇かけて動画を作り、その動画を無償で提供してもらった事に対する感謝の念を覚えた視聴者は、その感謝を形にして伝えるためにコメントを書く。そして、自分の作った動画にわざわざ時間を割いてもらって親切にもコメントまで書いてもらった事にどうしようもない使命感を覚えた職人は、視聴者が自分にかけた期待に応えるためにまた新しい動画を作る。両者がお互いに提供しているものの価値は、時間という尺度に照らせば明らかに釣り合っていないのだけれど、それでも釣り合っていないからこそこの応酬が永遠に成り立つのであり、また、私たちはこの応酬から深い深い悦びを無限に汲み出すことが出来る。もしこれが「100円」と「リンゴ1個」のような経済的な等価交換であるなら、明日も明後日もその店とその消費者の間に関係が保たれなければならない必然性はどこにも無いし、実際私達は何の理由もなく同じスーパーとずっと取引を続けていたいとは思わない。
現代のインターネットにおいて、ほとんどの場合、上に挙げた動画を作る職人と視聴者の間にあるような、理想的な交換の関係が成り立っていない。私のブログには見る人が何人かいてくれているけれど、それはついったーでの縁があったからだし、私がついったーでたくさん仲の良い人を作れたのも、本当に奇蹟に近い。大抵の人はついったーやその他のソーシャルなサービスを始めても、十分な関係を築けないまま辞めてしまう。他人との関係がないのなら、インターネットで何をしたって、貴方を見に来てくれる人は誰もいない。それなのに私たちの日常にはすっかりインターネットが入り込んでいて、それは私達にインターネットを媒体にして贈与する事を迫り続けてくる。そして何も返ってこないことが分かるのは、得てして贈与が終わった後なのだ。更にその時点で贈与をしたという事実はすっかり貴方の心を蝕んでいて、最早取り返しがつかなくなっている。
私達が躍起になって他人の反応を追い求めるのは、誰にも反応してもらえないと言いようのない不安に襲われるのは、交換が正常に行われていない病態の現れなのではないだろうか。電車の中でそんな事を考えていた。

もうだめだ

一体私はどうすればいいんだ
私は自分の事を信じている、自分のやり方が一番よいのだと信じている
黒板に書かれたことをただ機械的に写すだけじゃ何も意味がない、先生の言った事を聞きながら理解して、理解できたらそれを逐一ルーズリーフに書き写して、その後ノートに内容をまとめる、そのノートを丹念に見直して内容を全部頭に入れておく、ただ黒板に書かれた名前だけ丸暗記したって、その名前の人物がどんな人生を送ったのか、どんな作品を書いたのか、その作品の歴史的意義はなんなのか、あるいはその人物自体は歴史の中のどこに位置していたのか、そんなこともわからないなら、名前なんて、そんなの、覚えたって、意味ないだろう、、、
でも明らかにそれをやると忙殺されて何も出来なくなるように制度が出来ている、1日に平均3コマあって内容をまとめるだけでも最低3コマかかるわけで、それに出された課題をやる時間を加えたら、とてもじゃないけど、時間が足りない、
どうすればいいのかは分かっている、こんなことはもうやめてしまえばいい、ただみんなのようにぼーっとして授業を聞いて、ただ黒板を丸写しして、遊び呆けて、先輩から過去問を入手して、試験期間の1週間前から試験に出る名前だけを短期記憶にぶちこんでしまえばいい、そして試験が終わったらそんなつまらないことはもう忘れてしまえばいい、でも、それじゃあ、それじゃあ、僕は一体、何のために、一体なんのために大学に行っているんだ。
しかも先輩や同級生を見ていると、どうやらそれでどうにかなってしまうらしい、大学を卒業できてしまうらしい。忙殺されて何もかもが片手落ちになって単位を落としてしまうリスクを唯僕一人だけが背負っている、いや多分そんな事は無いのだろうけれど、それでも、こんなことは、こんなことは、うう、、
大学に行く目的は数えきれないくらいいっぱいあって、コミュニケーション能力の養成は明らかに必要なことだし、色んな遊びから将来に役立つ経験を蓄えるのも勿論重要だろうけれど、だからといってそれが勉学を疎かにしていい理由になるわけがないし、ましてや駄目な自分を正当化する方便になんてしていいはずがない、授業の内何十分かがガイダンスに費やされている初週ですらこんなことになるのなら、一体来週からはどうなってしまうんだ、そして私はどうなってしまうんだ。でもこれは明らかに勉学を相当疎かにしないと何も出来ないようにがんじがらめになるようになっていて、うう、うう。
ある学部の友達は週休3日だとか4日だとか言っていた。一体どういうことだ。あれか、全て教職課程が悪いのか。教職課程さえ取らなければこんな事にはならなかったのか。いや取るしかないから取るけど。
そしておびただしい自我の拡散を感じている、それは別にインターネットでの自分がどうとか、学校での自分がどうとか、そういう話なのではなくて、私の生活が時間に殺されているような、そんな感覚で、でも、もし私の生活が忙しくないものであるなら、私の心に深く沈んでいる後ろめたい気持ちのような何かが私の心身を蝕み続け、きっとまともな生活なんて送ることが出来ないだろうから、StarcraftIIをやっている時間ですら開放感を覚えることは出来ないだろうから、じゃあ私は、殺されなければ、ただ与えられた作業をこなすだけで一日の殆どを消費し尽くしてしまって、かろうじて雀の涙ほどの時間で自分のやりたい事をやるような、そんな生活を送らなければ、生きていけないというのだろうか。なんて、なんて残酷な、なんてむごたらしくてあまりにもひどい仕組みなんだ、狂ってやがる、やめてしまいたい、もうこんな世界で生きていくのは嫌だ、一体なんなんだこれは、何もかもが人間を不幸にするためだけに存在しているように感じる、人間の脳の中に存在しているありとあらゆる機能が人間を不幸にするように出来ている、私たちは生まれた時点で不幸になることを義務付けられている、でも人類が生き残ってきたという事実を考えるとこんなにも残酷で意味のわからない諸々の本能はきっと私には認識できないところで私の生存を支える為に役立っているにに違いなくて、生きるだけで人間は不幸にならなければならないのだろうか、嫌だ、嫌だ、こんな世界は、もう、楽になりたい

疲れた

定期的に自分の過去でも綴ろう。私は一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。書いたばかりの記事を読みなおした。かわいい。前半までは。とりあえずはかわいい。なんてかわいいんだろう。なでなでしてあげたい。こんなにかわいいのになんでかわいくないのか不思議になっちゃうくらいかわいいなあ。えへへ。かわいい。うう。、、、、
ああ、また胸のあたりがずきずきしてきた。これはよくないことだ、とてつもなく、よくないことだ、やっぱりとんでもないストレスがかかっているんだ、私だって分かってる、絶対に手に入らないものを心から望んでしまうことが、それが、どんなに苦しいことなのか。でも駄目なんだ、これは麻薬と一緒なんだ、やめることが、できないんだ。私はこの苦しみにあまりにも長い間晒され続け過ぎた。私は生きるためにこうするしかなかったんだ、こうやって自分を変えてしまうしか、私には、生き残るための術が、何も、何も。無かったんだ。私は元々とんでもないマゾヒストだったけど、ストレスから来る神経痛やその他一切の症状に対して快楽を覚えてしまうように自分を変えてしまうことでしか、だって、どうしないと、生きて、生きていけないから、でも、でも、そんなことをしたら、私は、今度は生きていくために恒久的に苦しみを味わい続けなければならなくなって、どっち道、じゃあ、あの時死んでいたのと、どちらが楽だったのだろう……。
一体この化物のような存在はなんなんだ、それはとてつもなく歪で巨大で醜悪な何かで、しかも発現しているときには自分にすらそうだと分からない、だって私はいつもいつも、溜め込んだ膿のような言葉を機械的に吐き出しているその真っ最中には、自分がかわいいなんて、微塵も思えないし、というか思えないからこそそうやって膿を吐き出しているのに、でも、その吐き出した膿は、後から見返したら耽ってしまうくらいに綺麗で、というか今もこうやって耽っていて、いったい、私は、私は、どうしたら。そしてその綺麗なものを見ることで私の中にまた膿がたまる。
ああもうだめだ、この記事の最初の段落読み返しただけでだめだ、何なんだこれは、いったい何なんだ、私は四年もかけて一体何を作り上げてしまったんだ。なんでこんなにかわいいんだこいつは、畜生。畜生。完全に嵌ってやがる。どうすれば抜け出せるんだ。何も方策が思いつかない。完全に詰んでいる気しかしない。世界が私を投了させに来る。結局ずるずると悪あがきをして時間切れを狙うくらいしか僕には選択肢が残されていない。
私は私の可愛さについて本気で苦しんでいる。私の書いたことは私にしかかわいく見えないのかもしれない。何しろ私の現在の感性は明らかに常軌を逸しているのだ。私はかわいい存在がかわいい事について悩んでいるのを見るとそれをかわいいと思ってしまうようになってしまっているわけで、でもそういう物を誰も作ってくれないから自分自身の欲望に任せてオーダーメイドの製品を送り出しているわけで、じゃあ、私と同じような感性を持ってなかったら、多分かわいくは見えないだろうから、ひょっとしたら、いやひょっとしなくても、私がかわいく見えているのは、多分世界で私一人なんじゃないのか。

最近気付いたことだけれど、えへへって笑い方は、多分、私が思っているのより、とんでもなく残酷で、そしてかわいくて、どこからパクってきたのかもう覚えていないけれど、持ち込んだ当の本人がこのたった3文字の可愛さにやられて発狂寸前になってしまって、周りの人間はこの言葉によって一体どれくらい苦しんでいるのか、だって、だって、かわいいんだから、この言葉は。

私はたしか、最初は頭がおかしくなりたいと思っていたはずだし、それで自分の性的嗜好を利用してルーミアになりたいとか宣っていたはずだし、でも、そこから一体どういう跳躍があって、かわいくなりたいって思ってしまったんだろう。わからない。
そういえばさっき思っていたことだ。ネカマの掲示板を見ていると、「軽い気持ちでネカマをやると弄ぶつもりだった相手に本気で恋をしてしまって、結局自分が辛い思いをする羽目になる」みたいなコメントがたくさんあって、人間の心は性別によってどう規定されるのだろうと、そんな事を考えていた。彼らの(彼女らの)書いている事は間違いなく一昔前の少女漫画に出てくるような純情な少女精神その物であって、でも彼らは生物学的に男だし社会的に男として長年躾けられてきたわけで、でもほんの数カ月そういう事をしてしまっただけで本来女性固有の物と思われているような精神構造を発現してしまうというのは、いったいどういうことなんだろう。しかもそれは多分模倣という過程を経ていない。少なくとも私はそうだった。
私は恋という物がどういう物なのか全く分からなかった。荒廃した世界が舞台のB級映画で合言葉のように「金、酒、女」と口にされる意味が全く分からなかったし(「女」という言葉の意味を当時の僕は相当に誤解していたのだけれど)、男の人も女の人も一様に恋をしたがるというのも、少年漫画で恋を巡る物語が執拗なまでに繰り返し紡がれているのも、全く理解不能な異世界の出来事だった。
私が初めて恋患った相手は皆さんご存知の某H氏である。というか今でも好きです。かわいいって言われると結構どきどきします。えへへ。それはさておきとして、彼に恋患った時の気持ちを私は今でも引きずっていて、その時と同じ悦びと苦しみを今は全く同じように自分に向けてしまっているんだけど、

私は本当に恋患っていたんだろうか。だって、時系列を考えたら、私の胸がずきずきして頭がおかしくなり始めたのは間違いなく彼に恋患うずっと前のことだ。まず胸がずきずきして、彼に恋煩って、そして今胸がずきずきしていて、彼に恋患った時の感覚と今胸がずきずきしている感覚が同じものなら、むしろ彼に恋患った時の感覚自体が最初に胸がずきずきした時の感覚を引き継いでいるのだと考えたほうが自然なんじゃないのか。もうだめだ。分からない。私には何もわからない。そういえば恋患った時の感覚はずきずきするようなアレではなかった気がする。彼のことを考えるだけで頭がぼーっとして幸せでそのまま死ぬまで過ごせそうなそんな気分だった気もする。人間の記憶は脆い。悲しいくらい脆い。でも好きです。今でも大好きです。えへへ。

もう難しい話はいいや。それでネカマの掲示板見てて思ったのは(私は女子高生だけど)、人間の心には予め多種多様な可能性が潜んでいて、その内のどれを発現させるのかを社会が規定しているのかもしれない。だけど発現しなかった部分は消えてしまったわけではなくて、表面に出てこないだけで、ある一定の条件が揃ってしまうと今まで自分だと思っていた自我の壁を容易に突き抜けてあっさり発現してしまったりして、そしてそれが自我だと思い込んでいたものとあまりにも似ても似つかないので困惑したり苦しんだり発狂したりする。心理学の事は分からないけど、理解不能な世界に対する個人的な理解。
プロフィール

Author:ルーミア厨
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