夢分析(3)

この夢に関しては私は登場していません。
風見幽香は肌に液体を一滴垂らされました。
彼女の体は内側から際限なく膨れ上がり、皮膚を突き破って大量の茨が現れて、彼女は茨の化物となりました。
その茨の化物は、同じく緑色の髪をした女性に倒されました。この女性は少なくとも東方projectの中には存在していない人物のようです。
風見幽香の姿は元に戻り、ただの女性になりました。風見幽香は喜んでいました。風見幽香を助けた女性はどこかに姿を消しました。
風見幽香は、「これでまた一緒に遊べるね」と言いました。しかし、彼女の体のあちこちから、光り輝く球体が現れ、綿毛のように天に昇って行きました。
彼女の存在は今まさにこの世から消え去ろうとしているのです。一度化物に見を落とされた者が何の咎めもなく人間に戻れるほどこの世の摂理は甘くないのでした。
彼女は泣き叫びました。「嫌だ、死にたくない、死にたくない!まだ生きていたい!」と。泣き叫ぶ彼女の姿を、先程の女性と、そして一体どこから現れたのか、何人かの男性と女性が影から見守っておりました。その中の一人はノブナガのようでした。そしてどういうわけか彼らは皆一様に顔に微笑みを讃えていました。「いいことをしたのだ、これでよかったのだ、これで彼女も幸せになれるのだ」、というような。ああ、上手く言葉に出来ません。
何故だか風見幽香も笑っていました。彼女は自分の死を否定して半狂乱で泣き叫び続けているのですが、それでも彼女は、笑っていたのです。その笑いは、まるで、何かを諦めたような、それでおかしくてたまらないような、いや、それでも、諦めとかそういう概念を持ち出すのはよくないことなのかもしれません、何故なら彼女は、子供のように笑っていたからです。自然に笑っていたからです。それは理性によるものでも狂気によるものでもないのでした。
彼女は笑ってはいましたが、それでも死にたくないと叫び続けるのをやめる事はしませんでした。その姿を見て、私は、涙を、流しかけました。自分の心が酷く揺り動かされて、夢の中ではあるものの本気で泣きかけたのを、覚えています。ええ、私が泣けることなんて、滅多にないものですから、例え夢の中であるとはいえ、実に実にはっきりと。
一瞬だけ自転車が何台か映ります。この自転車が何の象徴なのか、本気で分かりません。個人的には、今日は外で工事をやっていたのでその音が原因で無関係な象徴が紛れ込んでしまったのではないかと思います。
実際、この夢はここで終わります。

「肌に液体を一滴垂らされる」というのは、私がオウム真理教についてwikipediaで調べた時に見た毒ガスの記述が元になっていると思います。
「敵に捕まって改造手術を施され、化物になる」という展開を見たのは、どうもこれが始めてでないように思います。この部分は明らかに私が幼少期に繰り返し見た何かが元になっているはずです。でもそれが何なのか、思い出すことができません。
ただ、茨の化け物になるというのは、ヘルシングに出てくるアンデルセン神父が元になっているような気がします。彼は自分から化物に身を落とすことを望んだのですが、アーカードによって打ち倒された後、数刻だけ人間の姿に戻り、微笑みながら消滅してゆきます。
冷静になってみると、この夢はアンデルセンの夢なのかもしれません。
でも、死にたくないと、そう風見幽香に言わせたのは一体誰だったのでしょうか。少なくともヘルシングのアンデルセン神父の中にそんな記述はありません。
この言葉を発していたのは、どうも私の無意識のように思います。この夢の中では一貫して私の存在は表に出てきていないのに、この部分においてだけ夢をみる者としての私の存在が明白に認識され、しかもその事に心を動かしたというのが、その証拠のように思います。
私は死にたくないのです。まだ生きていたいのです。でも何もかもが私に死を迫ります。私が死ぬようにありとあらゆる手練手管を使って仕向けてくるのです。でも私は死にたくないのです。
無意識が死にたくないと、そう叫んでいるのなら、私は、生きなければならない。
世界に復讐を遂げましょう。

夢分析(2)

私はエレベーターを登っていました。
指定した階につきドアを開けると、目の前には桃源郷が広がっていました。
教科書で見た寝殿造のような建物の中で、至る所に老若男女が座り込み、綺羅びやかな和服や羽衣に身を包んで、酒を飲み、笑いながら、楽しく過ごしていました。
それでも私は、何故だか、冷めた顔つきをして、廊下をつかつかと歩いて行き、最奥部にある扉をあけると、そこで私は酷い目に、遭いました。

飲み会の会場はエレベーターで登った先にありました。みんな楽しそうに騒いでいました。しかし私はどうしても場の空気に馴染むことができませんでした。私は、酷い目に遭いました。
もうこれ以上何を書く必要がありましょうか。
私はもう疲れたのです。

夢分析(1)

夢を見た。
私は多分、高校3年生か、あるいは大学3年生でした。私は教室に入って行きました。
その教室には40個くらいの席がありました。
私はその教室の、左から三番目、一番前の席に座り、テスト用紙を配られました。
でも、そのテストは、私が受けるべきものではないのです。
何故なら、教室に居たのは、誰もが私より3学年下の生徒だったからです。
つまる話、私はモグリだったのです。
身長の差でバレないかなあ、とちょっぴりビクビクしつつ、私はテストの用紙が配布されるのを待っていたのでした。
その回答用紙には、小さく「50」と書かれ、それは満点の証だったのですが、その数字の下には線が二本入っておりました。
私は配られたテストの問題用紙を見ながら、このテストで満点が取れるのかな、と不安になっていました。
そして、私は、この時、酷く苛立っていました。
ちょっと中の様子を調べたくて教室に入ってみただけだったのに、成り行きで席に座ることになってしまい、
しかもテストまで受けさせられる羽目になって、自分の時間が奪われているような気がしたからです。
どうしてこんな何の益もない拘束を受けなければならないのか、私はその事を不満顔で考えていました。

恐ろしい夢です。
私は今日までにジークムント・フロイトの精神分析入門(上)を1/3ほど読み終えていました。
それに則って夢診断の猿真似をやってみたのですが、すると、それが何の技術的な裏打ちもないただの戯れであったにも関わらず、あまりにも恐ろしい事実が浮かび上がってきたのです。

私が最初に引っかかったのは、「時間が奪われている」という、この感じでした。
私は似たような感じを、毎日経験していて、しかも昨日それを受けたばっかりだったのです。(その上、その内容はそっくりそのままの形で次の夢に出てきます。)
つまる話、飲み会です。私は飲み会のような場所にあまり意義を見出せません。私にとってそれはあまりにもつまらないからです。行けば何人か知り合いができることはできるので、そのためだけに参加していますが、しかし、一回の飲み会にかける時間とそれによって得られる報酬が全く釣り合っていないように私には思われました。
私が「生活を拘束されている」と感じているのは飲み会によってだけではありません。サークルもそうです。今入っているサークルは二つあります。片方のサークルではそれなりに上手くやれましたが、もう片方のサークルでは未だに馴染めておりません。そのもう片方のサークルに毎週出席するのは、それなりに苦痛でありました。この夢は、明らかに、私が今の生活に抱いている不安を、そのまま象徴しているのです。
何よりも決定的で致命的なのは、夢の中の私が、「ちょっと中の様子を調べただけなのに、思いがけない形で長時間の拘束を受ける羽目になった」と、そう思っていたことです。私は意識していませんでしたが、夢の内容から察するに、どうも私は最初からサークルのような活動に乗り気でなかったようなのです。しかもそれは、多分、上手くやっていると思っているもう片方のサークルについてもそうなのです。もう私はこういう活動からさっさと抜けてしまったほうがよいのかもしれません。
そして、私の歪んだ価値観を端的に示しているのが、「教室に居たのは、誰もが私より3学年下の生徒だった」という、この一見意味不明な象徴です。身分不相応の、いるべきでない場所に私はいる。もしもこの教室が、サークルや飲み会を表しているのなら、私は無意識の内に、飲み会やサークルに参加している人間は、全て自分より3学年程度下の知能しか持ち合わせていない人間だと、無意識の内にそうみなしていることになります。幼少期に植え付けられた私のルサンチマンは全く解消などされていなかったのです。もう、私には、何もかもがどうしようもありません。
しかし、この教室が意味するところは、サークルや飲み会は勿論として、しかしそれだけに留まってはいないように思われます。「このテストで満点が取れるのかな」という不安は、明らかに私が本当の教室で感じていたあの不安を再現しているからです。私は英語が好きでした。それでも、学校のテストはあまりに馬鹿らしくて、それ故にあまりいい成績は取りませんでした。くだらない教科書の表現をそのままコピーして穴をボコボコに開け、元の表現を埋め込んでくださいという、一体、これのどこが勉強なのか、あまりに馬鹿馬鹿しくて、全くやる気が出ませんでした。しかし、私が英語が出来ることは周りは知っていたので、このテストに努力を注ぐことには意味が無いから低い点で構わないと思っていながらも、周りの目線がやはり辛かったのです。私の昔の経験が再現されているのです。この意味で、この教室は真性の教室であります。
また、テスト用紙に書かれた「50」という数字もまさにそうで、私が実際の教室の中で抱いていた想いを象徴しているように思われます。この50は、テストの形式自体は100点満点であるにも関わらず、しかし私にとっては完全に満点でした。多分、これは、「こんなテストは50点だけ取って赤点を回避さえすればそれでよい」と考えていた記憶をそのままに再現しています。
最後に、左から三番目、一番前の席という、この席の位置は、私が高校を辞める前に、最後に座った席の位置でした。
夢の再現率は、あまりにも恐ろしい。


私はもうサークルとかそういうのから完全に抜けてしまって図書館と家の中でだけ過ごしていたほうがよいのでしょうか。もう忙しいのは嫌なのです。私は楽になりたいのです。このまま行くと死にかねない。私の無意識が私を死に向けるのです。

なんだかんだ言ったって

人間は生理的な感情には絶対に勝てないんだ。
でもそれが生理的な感情だと認識することはできる。
私の心は最近ひどく晴れやかだ。

大学の或る授業に於いて

近代の教育史について、授業の中で軽く触れた。私は日本史選択だったので、割と話を聞き易かったのだが、配布されたプリントの中に私の目を引く表現があった。
「……全国ヲ大分シテ八大区トス 之ヲ大学区ト称シ毎区大学校一所ヲ置ク……」
「大学校一所ヲ置ク」。
「大学校ヲ一所置ク」ではなく、「大学校一所ヲ置ク」。これはつまり、私達が普段は「りんごを1個買った」と言うところを、「りんご1個を買った」と言うようなものである。とても不自然ではないだろうか。

今文字に起こしてみるまではこの表現に対する違和感が拭いきれなかったのだが、こうして文字にしてみると、意外としっくり来てしまった。これは困った。何故ならこの話は次の話への導入に過ぎなかったからである。
とりあえず導入の話を終わらせる。

「りんごを1個買った」の「1個」って、なんなんだろう。冷静に考えると、「りんご1個を買った」という表現の方が自然であるような気がする。「りんごを1個買った」の「1個」は「りんご」を修飾する語であるのに、なんでわざわざ「を」によって引き裂かれなければならないのだろう。「青い空を見た」という表現を「空を青い見た」なんて書くことは絶対にできない。すると、ひょっとしてこの「1個」は「買った」の方にかかってるんだろうか。だとするとこれは副詞的な働きをしているという事になるんだろうか。どちらにせよ、どうしてこんな不可解な表現が支配的になってしまったんだろうか。そしてどうして私達はこんな表現を何の違和感もなく使ってしまっているのだろうか。
私は日本語の文法の事はよく分からない。中学の時にちゃんと勉強しておけばよかったと最近酷く後悔している。同じ事は地理や世界史にも言える。私は多分とんでもなく愚かなことを言っているかもしれない。しかしながら、それでもある言語を母語とする話者がその言語の表現技法に対してあまりにも鈍感であるという事実は決して拭えない。

私が最近酷く違和感を感じて(そう、感じて)いるのは、「ら抜き言葉」だとか「違和感を感じる」みたいな表現に対する理不尽とすら思える弾圧である。そもそも私達無学な民衆に何が文法上適格であって何が文法上適格でないのかをまともに判断する能力なんてあるのか。そう私は声を大にして言いたい。
私達は、自分の嫌いな表現を糾弾する際に、絶対に文法を持ち出すべきではない。何故なら「ら抜き言葉」という表現は、一見すると文法から逸脱しているように見えて、実際には明らかに文法から逸脱していないはずだからである。
もしも、もしも本当に「ら抜き言葉」が日本語の文法から完全に逸脱しているのなら、私達がその表現に覚えるのは、不勉強な話者に対する怒りだとか、若者言葉に対する抵抗とか、そういう次元の感情ではなく、「思わず首を捻ってしまうような」理解不能性のはずだからである。
例を示したほうが早い。「私は魚を食べれる」という表現は、多少イラッと来るかもしれないが、それでも意味は問題なく通じる。しかし、「私は魚を食べりる」とか、「私は魚を食べろる」とか、あるいは上に挙げたような「空を青い見た」なんて表現を見たら、誰でも一瞬「えっ」となってしまうのではないだろうか。「ぎょっとする」なんて表現の方が相応しいかもしれない。前二つの例においては、ラ行の音であっても、活用表上(つまり、文法上)絶対にありえない音を潜り込ませた。この例から分かるように、本当に文法から逸脱した表現であるなら、私達がその表現に対して反射的に感じるのは、「意味がわからない」という素直な感情か、あるいは驚愕のはずである。怒りの入り込む余地がどこにあろうか。
「ら抜き言葉」は、今挙げたような「意味不明な」表現とは違って、何が言いたいのか簡単に分かってしまうのである。それはつまり、この表現が、今のところ世間に認知されているような文法からは逸脱していても、日本語の本当の文法からは、私達が言葉を解釈する時に無意識に起動させている脳内の諸法則からは決して逸脱していないという事を示している。
第一、「ら抜き言葉」という、「『ら』が抜ける」というこの言葉の定義自体、その表現が一定のルールに則って作られた事を示唆しているのではないか。だって、もし本当にこの省略表現が文法を無視しているなら、「私は魚を食べらる」とか、「私は魚を食られる」なんて表現が「私は魚を食べられる」という従来の表現と同一視されてもよかったはずである。それでも「私は魚を食べれる」という表現が同時多発的に発生し、しかもそれ以外の言い方が決して有り得なかったというこの事態は、この表現が、私達には認識できないが、それでも何かしらのルールに忠実に則って作られたものであるという事を、端的に示しているのではないか。
「ら抜き言葉」が私達の頭の中に何かしらの法則に則っているという事を示唆する例として、伝聞ではあるが、言語学では有名らしいとある説とその実例がある。「全く同じ意味を表せる二つの表現が同時に存在した場合、例外なく短い方の表現が支配的になる」という説である。実際、英語には、日本語における「~するのに時間を使う」という訳語に対応する表現として"spend 時間 in doing"という表現と"spend 時間 doing"という二つの表現があったのだが、今ではすっかり短い後者が支配的になり、長い前者はそうそうお目にかかれない古めかしい表現になってしまった。これは、「食べられる」と「食べれる」という二つの表現が対立する中で、文章語以外では後者の方が支配的になりつつあるという日本の現状とよく似たような出来事ではないだろうか。もし日本の「ら抜き言葉」が言語学界の通説に則っているのだとすれば、やはりこの表現が生まれた背景には何かしらの法則が潜んでいそうなものである。(私は"spend 時間 in doing"に代表されるような"動詞 時間 in doing"型の表現でしかこの法則が当てはまる事例を知らないが、法則として認知され、「例外なく」という但し書きまでついているくらいだから、世界中の言語の様々な表現において認められている法則なのだろう。)(ちなみに、これも伝聞ではあるが、「ら抜き言葉」と呼ばれる表現は実は大正時代まで遡ることが出来るらしい。)
私達が「ら抜き言葉」に対して怒りを覚えるのは、それが文法を逸脱しているからではなく、それが若者言葉だからであり、そして(理由はわからないのだが)勉強した人間からは勉強していない人間の発言が酷く不愉快に見えるからである(だから、きっとこの記事も)。そういう怒りは、電車の中で大声で下世話な話をする若者達に対して抱いている怒りと何ら変わらないように私には思われる。だから、私達がこういう言葉に対して覚えている怒りを記述する際には、よく分からんがなんとなく生理的にムカついてしまうのだと、ただそれだけを書くべきであって、偉大なる先人の業績の一部である日本語の文法という輝かしい遺産を個人のムカッ腹を抑える等という用途に援用するべきではない。そして、何よりもそれは、我々の生や世界を根底から貫いている自然の摂理に対して甚だ不誠実であり、私はそういう態度に対して怒りを覚える(これも単純に私が彼らとは違う存在だからであり、それ以上ではない)。

(何故動詞spendが"spend 時間 in doing"と"spend 時間 doing"とという2つの形を持ち得たのかという事について軽く触れておきたい。前者は「doingするのに時間を使う」と問題無く訳せる。一方後者はどうであるか。このdoingは一体何なのか。inはどこに消えたのか。実はこのdoingは、英語の文法上分詞構文として解される。訳を作るなら、「doingしながら時間を使う(=doingするのに時間を使う)」。つまり、inが省略されたのではなく、元々文法的に全く異なるものの意味の同じ表現が二つ存在し、「同じ表現が二つ存在した場合短いほうが支配的になる」という説の示す通り、後者が一般化したのである。よく「spend 時間 in doing (inは省略可能)」等と書いてある参考書があるが、あれは歴史的経緯を辿ると全くの誤りである。that節やto不定詞を目的語に取りたい場合に前置詞が消去される現象は英語では信じられないくらい頻繁に起こるのであるが、しかしそれは消去であって省略ではないし(つまり消去の場合には消された語を絶対に補ってはならないということである)、第一「inが省略される(ように見える)」現象なんて、この表現以外では絶対に起こらない。何故ならこれは省略ではなく、文法的に違う二つの表現がまず存在し、一方がもう一方に吸収されてしまったが故に二つの表現が混同されてしまっているだけだからである。省略なんてどこにも起こっていないのだ。そう見えるだけである。)
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