我々が「それ」と呼んでいるもの

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ソーシャルゲームが蔓延り、およそゲームとは思えないような代物が続々と大ヒットして「ゲームとは何か」という問いが頻繁に叫ばれるようになった。「こんなものはゲームとは呼べない、呼んではならない」という文脈で。そんな中あるライターが、「ゲームとは何か」という問いに真っ向から挑んだ。
そのライターが半年かけて出した結論は、「(ソーシャルゲームであっても)プレイヤーに面白さを提供しつつ、ルールが厳格に守られており、確率もいじっているように感じないのであれば、ゲームとして認められる」ということだった。

何かがおかしい。

私はゲームが大好きだ。「ルールが厳格に守られている」という限りにおいて、ゲームと呼ばれる一切の物が好きだ。StarcraftIIも、League of Legendsも、DiabloIIIも、全てはその定義の中で私が楽しんでいるものだ。
あるいはソーシャルゲームであっても、「面白さを提供しつつ」、「ルールが厳格に守られていて」、「確率がいじられているように感じない」ものであれば、私はゲームとして楽しむことができた。
そのライターの与えた定義は、非常に明確で理に適っていた。

絶対に何かがおかしい……。
何かが、何かが根本的に誤っている。

私が今考えているのは、「ゲームとは何か」という問いではなかった。あるいはより一般的な、「○○とは何か」という問いでも無かった。私を捉えて離さないのは、「『○○とは何か』とは何か」という問いだった。
私達が何かを「呼ぶ」という行為は、一体何なのだろう……?
ゲームを専門に扱っているライターですら、「ゲームとは何か」という問いに答えるために、半年もの時間を要したのである。つまりこれは、私達が普段、「ゲーム」という言葉の意味を知らずに「ゲーム」という言葉を使っているということに他ならない。
この話は別に「ゲーム」という語に限ったことではなく、「愛」だとか「正義」だとか「道徳」だとか、私達は普段から、「それが何であるのか」も知らずに「それ」を言うことを、おかしいともなんとも思わなくなってしまっている。

絶対に何かがおかしいのだ……。

私が推測するに、多分事情はこういうことである。
原初の状態において、「愛」という言葉があった。その「愛」という言葉は、今私達が使っている「愛」とは違って、極めて具体的な、限定された意味を持つ単語だった。ところで、ここに人気の劇作家が居た。その作家は、極めて限定的な意味である「愛」という単語を、彼のたった一本の劇の中で使用した。その劇の中の「愛」という言葉は、観客を陶酔させた。あまりの感動に生命を揺り動かされた観客は「愛」「愛」と叫ぶようになり、その語は本来の意味を失い、他の作家の劇の中でも使われるようになり、次第にその意味を曖昧にしていった。適当な想像だが、実際の事情も恐らく似たようなものだったはずである。
「ゲーム」というものを発明した人間が居た。そのゲームというものは、私達が今遊んでいる「ゲーム」とは違って、ただ2本のバーが動いて1個の点が跳ね返り続けるだけのお粗末な代物だった。この史上かつてない発明に、どういう意味合いを込めてか、開発者は「game」と名付けた。その「ゲーム」というものは数多の人間を感動させ、大量の新たな「ゲーム」を生み出し、やがて一番最初のテニスゲームについては人々の頭から完全に忘れられることになった。
ただ棒が動いて点が跳ね返るだけのテニスを模した装置が、他のスポーツを模すようになり、あるいはスポーツですら無くなり、ハンドルが無くなりボタンが増え、あるいはボタンが減り、色がつき、逆にある時は文字だけになり、ある時はプレイヤーは何もせずにただ見ているだけの存在になった。そのどれもが「ゲーム」と呼ばれた。もはや「ゲーム」という語は、その原初の意味を完全に失った。

絶対に何かがおかしいのだ。

私達は普段から、「愛とは何か」「正義とは何か」ということを知りもしないのに「愛」「正義」という言葉の表す概念を実際に「感じる」。私達は普段から、「ゲームとはなんだろう」という事を知りもしないのに実際に「ゲームを遊んでいる」。
私達が「ものの名前」だと思っているものは、本当は「現実の何かを代替するためのもの」では無いのではないだろうか……?
例え白黒の石が64個と板切れ1枚しか無くても、ルールに則って立派な「ゲーム」を遊ぶことが出来る。逆に目の前にどんなに理路整然としたルールに従って動く機械があり、それに沿って1日12時間働こうと、私達は普通「ゲームをしている」とは思わない。あるいはどんなに面白いネットゲームでも、ラグが酷かったりすると、「ゲームを遊んでいる」という感じはしない。
私達が「ゲーム」と呼んでいるのは、「ゲーム」と呼んでしまったのは、「現実に存在する何物か」でも「システム」でもなく、「この身体の内側からこみ上げてくる途方も無い快感」なのではないだろうか……?
従って、私達が普段から思わずには居られないソーシャルゲームに対する不満は、「こんなものはゲームではない」という不平は、「ゲームとはこういう定義のものであるから、これはゲームではない」という切り口で語られるべき話ではなく、「今私は面白くないから、これは今この瞬間において私にとってのゲームではない」と、そう語ることしか出来ないのではないだろうか……?
きっと、「愛」だとか「正義」みたいな言葉についても同じことが起こっているのだ……。我々が「愛」という言葉を使って表しているのは、「母が子に注ぐもの」でも「恋人が恋人に注ぐもの」でもなく、一切の具体的な実在を伴わない、「身体の内側から込み上がってくるあの感じ」なのだ。我々が「正義」という語を使って言っているのは、「現実に存在する正しいこと」ではなく、「それが侵犯された瞬間に発生する視界が吹っ飛ぶような猛烈な怒り」なのだ。
我々はきっと、ある単語に、その単語が表すものとは殆ど無関係の感情を、「託して」しまうのである。私達は、「何か満たされない日常に興奮や彩りを与えて欲しい」という感情を、「ゲーム」に「託して」しまったのだ……。
「愛とはなんだろう」「正義とはなんだろう」という問題を語るときに、我々が真に解明すべきなのは、「その語がどういう意味であるのか」ではなく、「我々がその語に何を託したのか」なのではないだろうか……?
私達が考えるべきなのは、「ゲームとは何であるか」ではなく、「私達が『どういう時』に『ゲームをしている』と感じるか」なのではないだろうか……。

私は嫌になった。

木曜の授業は休まれた。土曜の授業は休まれた。カウンセリングの予約は二週連続でぶっちぎられた。私は人間のクズだ。授業を休んだからでも約束を破ったからでもない。その事に途方もない恍惚感を覚えているからだ。
もう私には何もかもが悟られているように思えた。私が楽になるにはどうすればいいか、決まりきっていた。それは今日の誕生日で恐らく確信に変わったことで、明日にはもう忘れられていることだった。私はのんびり過ごしたかった。小さい頃に植え付けられた、家族と談笑して、仕事に行き、帰ってきてまた笑い、同じ部屋で眠りにつくような、そんな生活が、私のささやかな願いだった。
現実は残酷だった。私がしているのでは仕事ですら無かった。たかだか週15コマ程度の授業に出席するだけのことだった。私はそんな事すら満足に出来なかった。私は世界に負けたのだ。もう世界のどんな場所も私のような人間の存在を許してくれそうもなかった。私はもう働きたくない。ただ寝ていたい。起きて寝るだけの暮らしがしたい。そんな望みすらどうもこの世界では叶いそうもなかった。
私が大学を辞めたいと言ったら、多分母は許すだろう。父も弟も、私の知り合い誰一人として、私がその選択を執ったことを決して責めはしないだろう。私がどれほど苦しんだのか、周りの人は誰もが知っているのだから。それでも決して世界だけは、それを許してくれそうもなかった。この世界というものには、どうも社会だけではなくて、私の頭に巣食っているあの悪魔も関わっているらしかった。
私が働かなければ、私には金が無い。父が死に母が死に、一体誰が私を養うだろう。生活保護が受けられるだろうか。そんな制度が私が死ぬまで続いてくれるだろうか。私は野垂れ死ぬのだろうか。あるいは、家族を亡くした後で、「ささやかな生活」はそこにあるのだろうか。残されたのは何も出来ない小さな老人と廃れた一軒家。孤独な老人は家の中で、何を思い、何を暮らすのだろう。そんな生活のどこに幸せがあるのだろう。私はもう一刻も早く幸せな内に死ぬしか無い。
それとも弟が私を養えるだろうか。恐らく彼は養えるだろう。ここであの悪魔がやってくるのだった。いつものように、倫理観やプライドといったものが私の生活を邪魔するのだった。ただ誰かに養われて生きていく。それが私の唯一の望みで、私の世界が絶対に許さないものだった。
あるいはこの悪魔は死ぬだろうか。消えて無くなってくれるだろうか。もう私は大学なんて辞めてもいいと本気で思っている。これは1年前の私だったら絶対に許されないことだった。もうそんな事はどうでもよくなってしまった。私は本気で死にそうだ。本気で死にそうな事柄については、どうも倫理観というのは段々と死に絶えていくようだった。それでもその過程には本当に多くの痛みを伴った。
不思議な事にあの悪魔は、大学を辞めるのよりも人との約束を破る程度の事に随分と固執しているようだった。約束を違う度に私の胸はじゅくじゅくと膿んでいき、その痛みは胸がスッとするような快感を私にもたらしてくれた。何もかもが矛盾した感情だった。
私の倫理観がそれを許さない分だけ、それを破った時に得られる快感は大きいようだった。私は苦痛と快感を同時に体験しなければならなくなった。これは決してマゾヒズムによって得られる快感ではなかった。私の願望と倫理観とが相克した結果だった。
私はもう大学を辞めてしまいたい。働きたくもない。私には家族がいる。もう生きてくれているだけで良いと言っている。生きているだけで承認してもらえる。生きているだけで誰かの役に立てる。もう大学なんてどうでもよかった。私はもう生きているだけでよかった。それだけで幸せになれそうだった。それなのに私はなんとなくでまだ大学にいるし苦しみ続けなければならなかった。多分生きているだけで幸せになんてなれないのは私自身がよく分かっていた。『世界を生きられる程私は強くもなく、未来を見通せない程私は鈍くもない』。私にはもうこの世界で生きていくのは無理だ。そんな事はとてもじゃないが出来そうにない。それでもただ生きていくだけの生活がどれほど惨めなものなのかは少し考えるだけで分かってしまう。せめてそんなことも分からないような世界に生まれてきたかった。私がただ生きるだけになったら、何年も、いや何ヶ月も経たない内に、家族すら私を軽蔑し始めるだろう、私は誰からの承認もきっと失うだろう。そして時間が経つに連れて、私の姿は本当に醜くなっていくだろう。それは純粋に加齢によってもたらされ、見かけの年齢と精神の年齢が合致しない事が人間の目にどれほど醜く映るのかは私自身が痛い程知っていた。私はああはなりたくなかった。私は働かなければならなかった。幸せをつかむために、動き続けなければならなかった。でもそんな生活が嫌になって、もう完全に疲れてしまって、何もしたくなくなって今こんなところでこんなことを嘆いていたのではなかったか。言っていることが滅茶苦茶になっているのは自分だって分かっている。30分として同じ事を考え続けていることが出来ない。もう色々なところがガタガタになって自分が自分じゃなくなって死にそうなんだ。お願いだから誰か助けてくれ。この地獄から誰か救ってくれ。

永遠の命に関する想念

妄想をする度に、妄想の設定は書き換わる。少しでも不都合な事が無いように、世界が純化されていく。
一番最初の段階ですら、既に私は永遠の命を願っていなかった。永遠の命を得た人間がどんな悲惨な末路を辿るのか、既に知っていたからだ。誰も居ない地球で永劫を過ごすのは地獄の底で暮らすのと何も変わりがないように思えた。「永遠の命を手に入れてしまうと、死にたい時に死ねない」という問題を回避するため、私が最初に願ったのは、数百年の命だった。
二つ問題があった。
まずそもそも、自分の寿命を好きなように設定した所で、それはどこまでいっても寿命に過ぎないということだった。何百年を生き、恐らく更に何百年を生き続けるであろう大木も、たった一片の火種の前にいとも簡単に焼け落ちる。私が何百年生きられようと、それは例えば赤信号を突っ切って来る大型トラックの前には無力だし、あるいは私を含めて地球全体を焼き尽くす核爆弾の類に対しては全くの役立たずだった。
もう一つ問題だったのは、自分の寿命を設定してしまった場合、そしてその寿命が終わる前に世界に飽き切れなかった場合、私は最後の数十年か数年を、寿命が尽きる瞬間に怯えながら暮らさなければならないということだった。何百年もの単位で自分の年齢を記憶し続けるのは不可能だ。恐らく150歳を超えた辺りで10年単位で自分の年齢があやふやになるだろう。そうなったら一体私はいつ死ぬことになるのか、全く見当もつかなくなる。そもそも死の恐怖から逃避するために永い寿命を願ったのに、死に怯える期間が通常より長くなったのでは本末転倒だった。
両方の問題を回避するために、私は死について違うことを願うようになった。つまり、「私の設定した条件が満たされるまでは私は決して死なない」ということだった。
とりあえず私は、「私が死にたいと思うまでは死なない」と願うようになった。これは突然死を回避する上でも、死の恐怖から逃れるためでも良い方策のように思えた。
問題があった。
多分私は、永い永い命の中で、色んな人と出会うだろう。それは友人であるかもしれないし、恋人であるかもしれないが、本当に大切な人が死んだ時、一体私はどうするだろう。ひょっとしたら、その人と、心中したいと願ってしまうかもしれない。私が死んでしまうかもしれない。その死が、例え未来の私が自ら望むものであったとしても、たった一時の情動によって自分が死ぬかもしれないというのは、今の私にとってはとてつもない恐怖だった。
仕方が無いので、「私が死にたいと一ヶ月思い続けるまでは死なない」と設定を変えてみた。それでもやはりだめだった。人間が一ヶ月同じ事を思い続けるなんてことが果たして出来るだろうか。どうもこの設定だと一番最初の不老不死に逆戻りしてしまう気がする。死にたいのに死ねない。この設定もすぐに没になった。
少し発想を変えてみて、自分が「生きていても仕方がない」と確実に思えて、かつ「近い未来にいつか必ず訪れる」ような状況はどのような状況だろうと考えることにした。例え人生に飽きてしまって、死にたいのに死ねなくなっても、数百年程度長生きするだけなら、まあ悪くないかなと思った。
その状況というのが、つまり、人類の滅亡だった。
地球上に誰も居なくなってしまっては、生きていても仕方がない。しかも多分それは、永劫よりも前に訪れてくれるだろう。私以外の人間が全員死んだ瞬間、私も死ぬ。これは今まで考えてきた中で、一番良い方法のように思えた。

ここからが今日考えたことだった。
人類が滅亡するのは、多分、核爆弾か何かが落ちた時だろう。そうなると、人類は滅亡するだろうか?
多分、それは間違いだった。何故なら、この世にはシェルターというものがあるし(それがどの程度機能するかは分からないけれど)、あるいは人類を滅亡させるべく発射されるその爆弾は、先進国を全部焼き尽くすくらいの威力はあっても、地球の端の端まではギリギリ届かない程度の威力しか備えていないのかもしれなかった。そうなると、私は一人荒野に立ち、地球上を隅から隅まで、文字通り足を棒のようにして、人類の残党を探し根絶する果てのない旅に出なければならない。
しかも、人類というのは本当にしぶといから、もしもあるシェルターの中で男女が一対でも生き残ってしまったら、彼らはきっと、どんなに血が濃くなり奇形児が何人発生したとしても、どうにかして種を絶やすまいと子供を産み続けることだろう。それも恐らくは、世界中に点在する無数のシェルター一つ一つの中で。私はありとあらゆるシェルターを、それが繁栄してしまうまでに叩き潰さなければならないのだが、日本列島の本州を歩き切るだけでもどうも数百年はかかりそうだった。大陸レベルになってくると、歩き切るだけで多分数千年はかかるだろう。数万年かかるかもしれない。
私が何千年もかけてある大陸のシェルターを叩き潰している間に、恐らく他の大陸にあるシェルターが手のつけようもないほどに繁栄してしまって、きっとシェルターの外にぞろぞろ出てきて、ゴキブリのように子孫を増やしていくだろう。私一人では、人類を絶滅させるのは、間違いなく不可能だった。
核爆弾が人類を絶滅させるのに失敗した場合、私はまた核爆弾が開発されるまで、何千年か待つ必要がある。そして、その何千年か後に放たれるであろう一発ですら、恐らく非常に低い確率でしか人類を滅亡させられないだろう。私が死ぬには、何千年かに一回しか引けず、しかも当たる確率が途方もなく低いと思われるクジで、当たりを引くまで待ち続ける必要があった。あるいは太陽が五十億年後に爆発するまで。多分それは、永遠の命が私に与える地獄と、何も変わっていなかった……。
第一、世界中を歩き続けて人類を殺し続けるったって、一体どうやって海を渡ればいいんだろう。船も飛行機も無いのに、まさか泳いでいくつもりだろうか?ひょっとしたら私は、絶対に地上にたどり着かない潮に流されたりして、永遠に海の上を彷徨うことにならないだろうか?あるいは波に飲まれて海の底に沈んだりしたら、私はどうなるのだろう?鼻と口から水が体内に流れ込んできて頭がガンガンするようなあの痛みを、永遠に味合わなければならないのだろうか?そういえば死なないだけでなく、病気や痛みも感じないようにする必要があった。あるいはそもそも、最初に核爆弾が発射されるまでに、自分でシェルターを作って、自然科学を勉強して、その中で核爆弾を好きなだけ作れるような体制を整えれば済むことなんじゃないのか?でもそうしてしまうと、実質的に「自分の死にたい時に死ねる」というのとやっている事が変わらないわけで、例えば一時の情動に任せて世界中に爆弾を落として世界と心中を図るかもしれない……。
私の願いは本当に穴だらけだ。妄想は終わりが見えない。
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