ブルータスお前もか

この日記はかすかな記憶を頼りに綴られている。特に本を参照しながら書かれたわけでもない。従って内容には記憶違いと根本的な勘違いが多分に含まれている可能性がある。
私が精神分析入門の上巻を読んだのはきっと半年以上前のことだ。毎日のように電車の中で周りの目も気にせず読みふけったものだ。それでも性欲に関する部分を衆人環視の中で読むのは流石に憚られたし本格的に性欲に触れることになる一番最後の章については遂に読むことが出来なかった。
しかし私は、この本を読みながら、フロイトは天才だと思った。本というものはやはり素晴らしいと思った。学問的な態度というのはこうでなければならぬと思った。科学者でもなければ哲学者でもないフロイトという男の中に私は真理の像を見出した。
その本の中で私が見た彼の世界に対する態度というのはこのようなものである──人間の行動には偶然等というものは何一つ(あるいはほぼ全く)存在せず、ありとあらゆる行動には必ず理由があるのだと。
読んだのが随分前の上に非常に複雑な話なので正確に書くのは不可能だろうが、彼の病的なまでの真理への誠実さを最も端的に示してくれたのが次の夢分析である。私は本の内容をもう殆ど忘れてしまったが、この夢分析についてはそれがあまりにも鮮烈である故に大体の内容を覚えているのだ。
ある女性が夢の中で食事を摂っていると、彼女の前に先日死んだ父親が現れた。彼女の前に現れた父親は言う。「……、11時45分、12時、12時15分、……」と。
夢の内容としてはそれだけである。あまりにも短く材料に乏しく、この夢の解釈には流石のフロイトも手を焼いた。しかし彼は最終的に、一体何が彼女にこの様な奇怪な夢を見せたのか、どのような原因があったのかを見つけ出す。
まず簡単に分かる事としては、彼女が父親の死を心から悲しんでおり、出来る事なら生き返って欲しいと心から願っていたことである。しかしそれだけでは夢の中の父親がどうしてこのような奇怪な発言を残したのかは全く分からない。
父親が夢の中でこのような発言をした直接の理由というのは、実は夢の数日前に彼女が母親とした会話の中にある──彼女は母親にフロイトについてよく話したそうだが、会話の中で母親は彼女に対してこう言った──「我々の中に原始人がまだ生きているのね」と。
フロイトの言によれば、人間の記憶や無意識とそれによって形成された夢がお互いに全く違う姿形をしているのは、夢の機制が我々が原始人であった頃の象徴関係を用いているからであるという。その事を受けての発言である。
ドイツ語で「原始人」を表す単語は"Urmensch"。日本語で読むなら「ウールメンシュ」。"Ur"が「原始の」という接頭辞で、"mensch"が「人間」という意味の名詞だ。ところがこの単語は、その読み方だけを維持して綴りを変えることで辞書にも載っていない全く新しい造語を作る事ができる──"Uhrmensch"、「時計人間」と。
「我々の中に『原始人』が『生きている』」という母親の発言の記憶と、「『父親』に『生きていて欲しい』」という願望が共犯になって夢を作り出し、「父親」が「原始人=時計人間」になって「生きて」夢の中に現れたのだという。最早芸術的とでも呼ぶべき見事な解釈である。よくもまあこんなにも短く馬鹿馬鹿しい内容の夢に対してここまで長々と分析を加えて、しかし非の打ち所のない結論に辿り着けたものだ。
ちなみに彼女の父親は生前、娘である彼女が時間通りに食事を摂り規則正しく生活していることを非常に快く思っていたという。夢の中で彼女が食事を摂っていたことと、父親の告げた時刻が正午(つまりは昼食)に近かったことにはそういう理由がある。
フロイトは絶対に別の種類の病気である。彼は普通の人間が偶然と片付けてしまうような事柄に必然と理由を見出す天才だった。本一冊を不完全な形でしか読んだことは無かったし、彼の理論の大部分が後世に否定された事も知っているのだが、それでも私はフロイトという男の世界に対する態度を心から尊敬していた。
私が愕然と肩を落としたのはその半年あとのこと、つまりは昨日のことである。
内田樹によれば、フロイトの精神分析に対する態度はそのようなものでは全く無いという。
フロイトは十数例のヒステリー患者を研究した後で、人間の本能にまつわるある事実を発見する──実は人間というものは記憶を同じ形で思い出すことは生涯に二度と無く、何かを思い出す度に新しい記憶をその場で「創造」しているのだと。患者に神経症を引き起こしている「真の理由」に我々が辿り着く事は不可能であり、精神分析医が出来るのは症状を消滅ないしは軽減させることだけなのだと……。
フロイトの精神分析に対する態度もラカンに対する精神分析も同じものであって、精神分析の本質というのは分析医と患者との対話の中で神経症の原因が「作成される」点にあるのだと……。患者に必要なのは「自分が何故この様な症状を抱えてしまったのか」という「物語」だけであり、その物語さえ手に入れば症状は治るのであり、物語が事実であれ虚構であれ、そんなことは精神分析にとってはどうでもよいのだと……。
私はそんな事は言って欲しくなかった。世界のありとあらゆる不可解に対して「正しい」解釈を苦悶の内に紡ぎ続けるフロイトだけを死ぬまで信じていたかった。「ぶっちゃけ現状の世界を説明できる科学的な理論なんていくらでも作れるんだよね(笑)」なんてあのような開き直りと諦めを、フロイトにだけはして欲しくなかった……。
私が最初に考えたのは、内田樹は絶対に精神分析の専門家では無いということだ。しかもまえがきの部分で内田樹本人が自分は専門家ではないと白状している。だから内田樹のフロイトに対する見方が間違っているのであって実際にはフロイトというのはその病的なまでに真理に誠実な姿勢を生涯貫いた立派な人間であると思い込んでみる事も出来た。そんな考えは5秒で破綻した。何をどう考えたって精神分析入門の上巻を一冊だけ読んだだけでラカンに至っては全く知識の無い私なんかより内田樹の方がこの手の分野にはずっと詳しいのであり、しかも私は精神分析入門がフロイトの生涯においてどの年代に書かれたのかすら知らないのである。例えばウィトゲンシュタインが後年になって昔の著作の内容の一部を否定したように、フロイトが精神分析入門を出版したずっと後になって「随分気合入れて書いちまったけどあの頃は俺もまだ青かったわ、メンゴメンゴ」とか言ってる可能性だって大いにあるのである。私ごときの勝手な思い込みより内田樹の言っている事を信用する方がどう考えたって合理的な判断だ……。
それでも多分、この件についてだけは私は内田樹の言っている事を信じはしないだろう。理解するのと納得するのは違うのだ。その様な見方があるという事を知ることと、その様な見方こそが「本当のものの見方である」と思い込むことは全く別の事なのだ……。「本当のものの見方」なんてものが最早この世には存在しないとしても、我々にはまだそれを内面に取り込むかどうかの余地くらいは残されているのだから……。
そんな事を考えながら、私は思うのだ──一体私は、何のために勉強しているのだろう?私が知識に縋りつくのは、きっと何かを信じたいからだ。私の身を心から震わせるような何かを見つけ、それに身を委ねたいからだ──そうだとするならば──私が求めているものの本質は宗教と一体何が違うのだろう……。私が知識を欲する動機自体が何かに身を委ねることであるし、仮に目の前に信条に反する事実が存在しても頑なにそれを斥けることが出来るなら──人間が猿から進化したという事実を認めようとしない愚鈍で盲目な狂信徒と、私はどこが違うのだろう……。
私は矛盾した事をやっている。内田樹の正しさを無条件に信じておきながら知りたくない事柄については彼の言を信じない。結局私が頼っているのは理性ではない。この日記を最初から最後まで貫いている動機が一体何なのか、ヘーゲルやフロイトはきっと答えてくれる。私が欲しているのは結局のところ世界に対して自分を優位に立たせられる物の見方であり、それは私のある面では貴族的道徳であり、別のある面では奴隷的道徳であり、結局は「力への意志」なのだ。中期のニーチェが墓場から私を呼んでいる。永井均が地獄に落とす。「ある観点が世界の側を内包している等という考えは哲学的に幼稚である」。「ウィトゲンシュタインはこれ以上進めないことを悟ってここで引き返したのだ」。──嗚呼、神様!私は理性的でありたいのでも幸せに生きたいのでもなく、こうやってただジタバタしながらただ世界からの承認を得、他人から良く思われたいだけなのです!そしてこうやって白状する私をソーカルが糾弾するのです──中身の無いことを隠そうとするために難解な用語を極めて誤った方法で援用してはならないのだと!世界中の人間が私を板挟みに追い込んで殺そうとするのです!嗚呼、私は、一体何の為に、何の為に勉強をするのでしょう!私はそれを知っていて尚、書いていて尚、まだ書こうとしない──「他人から良く思われたい」というだけではあまりにも不十分なのです。あるいはそれを書いた時点でそれは嘘になってしまうし、私が何かをする本当の理由になんて辿りつけやしないし、自分が何をしたいのか、私にすら分からないのですから……。物語は正常に紡がれ、無意識の壁は取り払われた。嗚呼、本当に馬鹿馬鹿しい。

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よりにもよって使うのがここかって話ですよ。いや何がって聞かれても困るけど。
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