平常運転

くだらないこと書いてアクセス乞食なんてしてる場合じゃなかったんだよ。一刻も早く元の軌道に戻さなきゃならない。
でも、多分、これからもこのブログには、「何言ってんだこいつ……」としか言えないような恐ろしくマイナーなネタが単発的に載ることになるだろう。どうして今まで気付かなかったんだろう。こんなにも多くの人がgoogleというサイトを利用していたことに。
一番最初にその事を知ったのは「自殺者の心理」という記事だった。あの記事には未だに1日1回の割合で謎のアクセスがある。例えば私みたいになんとなくで色んなサイトをブックマークしてポチポチしているだけで5時間くらい平気で潰せるような人間の仕業なのかもしれないが、とりあえずまあ、本当に嬉しかったもんだ。それは今だって変わらない。
次に私が、決定的に味を占めたのが、そしてインターネットへの不審を決定的なものにしたのが、例の精神病。あの記事自体がそもそも次の記事の枕だったんだけど、やっぱり1日に1回くらいの割合でgoogleからアクセスがある。正直あの記事かなり間違ってるんだけどさ。
それでだ、私はとんでもなく意地悪な奴だから、妄想するわけだ。googleか何かでこのサイトに来て、その人が関連情報を探しながら、この意味の分からないサイトを彷徨っている様を。残念だったな、このサイトにお前の望むものは何もない!私はその日その日に思ったことを書いているだけだから、しばらくして「この前書いた事の続きだよ~もっと面白い事が分かったぽよ~」とか言って新しい情報を付け加えることは、無い。断じて無い。Ibについてだって多分もう二度と書かない。あの病気についてだってもう書かないしこれから書くことだって全部そうだろう。
単発的な情報を大量に載せ続けることによって流浪の民を大量生産してやる!私はインターネットの悪意になる!ブログによってかき消され、ツイッターによって滅ぼされた、かつてのゼロ年代インターネットを支配していたどす黒い悪意に!
ああ、嬉しい、生きているってなんて嬉しいんだ。そして私はなんて嫌な奴なんだ。生きて嫌になる。本当にもう嫌だ。

再公開(Ibのエンディングに関する考察、「偽ャリー」について(v1.04))

http://iwtbr.blog134.fc2.com/blog-entry-470.html
色々考えた結果、勿体無いので再公開する事にしました。流石にかなり旬を過ぎた感じがありますし、今更必要とする人は殆ど居ないのかもしれませんが……。
主な変更点は以下の三点です。

・記憶違いによって引き起こされていた考察中の致命的な誤りを修正した(等価交換の法則→例のメッセージに修正)。それに関わる部分を色々書き直し、一部の間違った事が書いてある段落は丸ごと削除した
・メアリーが脱出できない理由が間違っていたので、同ルートの別エンディングを載せて正しく書き直した
・段落の見出しにアンダーラインを引いてちょっぴり見やすくした

非公開にした理由は、予想以上にアクセスが多くてびっくりしたのと、記憶違いでとんでもないミスをやらかしていたのに気付いたからで……。「時間があったら書き直したいなぁ」なんてぼんやり思っている内に半年経ってしまいました。明日やろうは馬鹿野郎とはよく言ったもんです。

学びについて

私は哲学が好きだ。専門的に勉強しているわけではないけれど、哲学という学問の考え方それ自体を愛してやまない。
私は妄想も好きだ。さっき風呂場でこんな事を考えた。
もしも私が哲学を専攻した学生だったとして、就職面接の時に、「哲学専攻という事ですが、貴方の勉強した内容が当社の一員としてどのように役立つとお考えですか?」とか聞かれたら、一体どう答えればいいだろう、と。
妄想の中の私は、面接官に対して何事かを答えるのではなく、自らが妄想の中の一人物である事を無視してさらに考え始めた──哲学とは端的に言って自己批判の系譜であるから、哲学の様式を体得した人間は現状の矛盾を見抜き、改革する力を持つ。その様な人間は、きっと、多分、役に立てる、のではないか、うん……。ごめん。ちょっと断言できない。いや全く出来ない。御社の内容と私の勉強した内容にどういう関連性があるのか正直ちょっと言えません。はい。でも多分役に立つのではないかと思います、多分……。
こうして妄想の中の私は口をつぐんでしまったのだった。
勉強した人間は何事の役にも立つ。私はそう確信している。勉強すること、何かが出来るようになる事にはそれ自体に価値があって、人間は常に学習を通しながら「どのように学習するのか」をメタ的に学んでいる。何か一つのことに秀でた人間は、既に勉強する方法を知っているので、大体どんな事を任されてもそれなりのエキスパートになれる。早い話が、勉強が出来るようになったということは、その人が何者にでもなれる金の卵になった事を意味するのだ。
でもなあ、と思う。
現状の日本社会を見ていると、学歴至上主義と「勉強なんて何の役に立つの?」という考え方が共存しているように思う。実際に就職面接でも「貴方の勉強した内容が当社の業務内容においてどのように役に立つとお考えですか?」のような質問はあると聞く。そういう質問をするにも関わらず、いわゆる大企業は高学歴の人間を優先して採用することをやめない。貴方の勉強した内容と業務内容に何の関係があるのか、という事を尋ねるのなら、貴方の学歴と業務内容に何の関係があるのか、という事を同時に尋ねなければならないと思う。第一、大学は専門学校では無いから、実際の仕事に役立つようなことなんて絶対に学生に教えない。これは一流大学だろうがFラン大学だろうが全く同じこと。何を学んだのかを問題にしてしまうのであれば、そもそも大学から新入社員を採ろうとする理由が存在しない。純粋に仕事の出来る奴が欲しいんだったら専門学校から採ればいい。あるいは中途採用だけに雇用形態を限定すれば良いだろう。

何が問題であるのか。とりあえず現状について整理してみる。
まず私達は、生きるために定職に就かなければならない。定職に就くには、何故だかわからないが、とりあえず学歴が要る。学歴を手に入れるには、大学と学部を選ばなければならない。ところが、私達は「政治ってなんだろう」「経済ってなんだろう」「文学ってなんだろう」「商業ってなんだろう」「法律ってなんだろう」……などといったことを全くと言っていいほど知らない。知ったつもりでいて、情報が充分でないことだってある。それでも私達は、何か一つを選ばなければならない……。
一番の問題は、この事情が、全日本国民に共通のものだという事です。
何故だかよく分からないが、大企業が学歴を重視しているので、わけもわからないまま我々全員が大学に行かなければならないということです。
私達の最終目標は生きることであり、手に職をつける事であり、何故だかそれに学歴が必要だということです。
「○○社に入りたいので○○社の業務内容に役立つ技術を身に付ける」という選択肢が、何故か存在していないことです。
純粋に仕事がしたいのならどう考えたって専門学校に行くべきなんです。でも専門学校では「まっとうな仕事」にありつけない。仕事がしたければしたいほど、「仕事とは何の関係もないこと」を勉強しなければならないという罠にハマる……。

もうちょっと考えてみると、これ、就職の4年前にも全く同じように起こっていることです。
思い出してみてください。我が国に存在する大学受験というシステムを……。
大学によって科目数や内訳は違いますが、大学に入るためには、古文、漢文、現代文、数学、英語、物理、化学、生物、地学、日本史、世界史、地理、政経等の科目からいくつかを選んで勉強しないといけないんです。
でも、こういうお勉強って、基本的に大学の中で勉強することとは全くと言っていいほど関係ないですよね。一部の学部(特に理系)では高校までに学んだことの延長になる内容を大学で勉強することもあるでしょうが、ほとんどの学部ではそういう事が起こらないと思います。受験で勉強したことって、内容だけ見るとぶっちゃけ大学でやることと全く関係ない。勉強が出来なきゃいけないのは大学に入る瞬間までで、入ってさえしまえば受験の時に覚えた事なんて全部忘れたって構わない。

企業の選抜にしたって大学の選抜にしたって、行われていることは一緒なわけです。実際にその中でやらせる事とは全く無関係の事を基準にして能力を図るという摩訶不思議なやり方を我々はしている。
大学はよく企業の就職活動偏重体質や青田刈りを非難しますけど、正直、大学は企業のことを非難できる立場なんかに無いと思うんです。自分達がまさに同じ事を高校生に対して行なっているわけですから……。
私はこういうやり方を咎める気は全くありません。人間の能力なんて、そういうやり方でしか測れないと思います。でも、それなら「何を学んだのか」なんて事を考えたらいけない。勉強したという事実それ自体が重要なのであって、実際に何を学んだか、それが仕事の役に立ちそうかどうかなんてどうだっていい。
よく、「数学が身の回りでどのような役に立っているのか」みたいな触れ込みで売られている本を見ます。私はああいうのは完全なペテンだと思います。私は嘘をつきません。数学どころか、勉強なんて全部、内容自体は何の役にも立たないものなんです。大切なのは勉強するという事であって、何を学ぶかなんて本当にどうでもいいんです。
我々は、「勉強の出来る人間はどうやら他の事をやらせても大体役に立つらしい」という事実を経験的にかろうじて知っているだけであって、勉強する内容なんて、何の役にも立たないことなんです。

でも、こういう事に気付いているのは、「どうして勉強しなきゃいけないんだろう」という問いを「本気で」考えて、学びとは何なのかについて根源的に触れたことのある人間だけです。

ほとんどの人は、勉強はそれ自体が何かの役に立つと思っています。どうして英語を勉強するの、と聞かれたら、多分大体の人は、外国人と話せるようになるからとか、海外で働けるようになるからとか(私はこれは随分傲慢だと思いますけど)、そういう答えを返すんじゃないでしょうか。私はそれとは全く真逆の事を言います。英語を勉強する意味はそんな事になんてありません。日本人にとって、英語ってとっても難しいんです。だから出来るようになる価値があるんです。英語を勉強する意味なんてそれだけです。日本人の9割が一生英語を使わなくて済むと言われているのに、それでも「役に立つから」英語を勉強しろなんて言うのは、私はごまかしだと思います。逆なんです。英語を勉強しないといけないのは、役に立つからじゃなくて、何の役にも立たないからです。勉強というのは基本的にそういうものです。

勉強なんて内容だけ見たら何の役にも立たない、という事に気付いている人間はあまりいません。

企業にしろ大学にしろ、多分、この「とりあえず勉強した奴を採ろう」というシステムを最初に考案した人は、そういう事に気付いていたんだと思います。そのやり方が実際にふるいとして優秀だったからみんなそういう同じ方法を真似するようになった。でも真似する時にそもそもどうしてそういうやり方にしたのか考える人はあまりいなかった。それどころか同じ会社や大学の中でも、そのシステムの意味に気付いている人は多分少なかった。だから、採用する側の人間が、本来考えるべきでない「こいつの専門はうちの会社にどう役立つのか」なんて事を考え出すようになった。学歴も勉強も、それ単体ではそもそも何の役にも立たないものなのに。

現代の日本社会で、企業とも大学とも関係のない学歴や受験科目という道具を使って人間を選別しておきながら、専門や受験科目の実用性が問題にされるようになったのは、そういう事情があったのだと思います。システムの意義を考えずに表面だけを掬い上げるような真似は必ず全てを破綻させる。嗚呼悲しきは和魂洋才。

生きるの疲れたなあ。

今日はとんでもなく心持ちが穏やかで、生きているだけで幸せを感じる。
こういう心境が普通の人に普段見えている世界なのだろうか。
世界から音がしない。外は真っ暗で、生きているのは私一人。部屋の隅の当たりから空気が入れ替わる音がして、川の音みたいに私の心を落ち着かせてくれる。風が吹いているわけじゃないけど、全身が空気の中に在ることを感じていて、生きているだけでとても心地よい。布団にくるまっていると、あったかくて、空気よりも私を抱きしめてくれて、体を動かしているだけで本当に幸せを感じる。
ああ、私は今とても幸せだ。もうこのまま死んだっていい。思い残すことなんてこの世に何もない。

かつてないほど心が落ち着いていて今こうしているだけでもとても気持ちが良いのに、どこか変な気がする。
病感という奴だろうか。
私はとても幸せだ。幸せだけど、どこかおかしくなったのだろうか。
気持ちよくて、もう生きているだけで、何も望むことはないのだけど、あるいは死んだっていい、何か変な気がする。
私はついに気が触れたのだろうか。
生きていて、素晴らしい。これが人生というものだ。何を欲することもなく、温かい空気に包まれて、ぼんやりしながら世界をみている。ぼーっとしていると、とても心地よくて、そのままうとうとしてしまいそうで、眠る気は無いけれど、気持ちがいい。
こんなに気持ち良くていいんだろうか。不安になってくる。こんなに幸せで。
私は、ずっと不幸だった。だからこんな風に幸せである今が全く信じられない。どこか変になったもかもしれない……。
もし私が病気であって、それに私が気付いていないだけなら、多分、私の書いた文章には、何か変な部分が現れるのだろう。気の触れた人間が絶対に持つような何かが。何かあった時のために、遺しておこうと思う。
プロフィール

Author:ルーミア厨
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