諸般の都合

記事を2件非公開に

我が名は近代

ニーチェが『道徳の系譜学』の冒頭で繰り返し述べたことが、我々現代日本人にとってはあまりにも当たり前の事なので、少し面食らってしまう。
ニーチェが言うには、道徳というものを研究する上で大切なことは、道徳の起源を「世界の背後」に隠すことではなく、我々の生きているこの世界の中に探し求めることだという。
当たり前すぎて逆に分かりが悪いかもしれない。
幼いニーチェは様々な事柄について父親に問うた。「どうしてそれをしてはいけないのですか?」と。父親は毎度のように答えるのだった。「それは神様が決めたのだよ」と。当時のヨーロッパでは、道徳というのは神が定めたものであり、世界に対して自ずから与えられているものであり、世界の背後にあるものだったのだ。
我々日本人は、いや現代に生きる人間なら誰もが知っている。我々を縛る一切の規律は紛れもなく人間が定めたものであり、場所によって、あるいは時代によっても違うし、それは社会を円滑に回すための都合の良い道具でしか無いのだと。今時「悪いことはお天道様が見ている」なんて、小学生でも信じない。世界に外在する道徳等というものは完全に死に切ってしまっている。
しかしニーチェは、自らの著作の冒頭で、「わざわざ」そんな事を書かねばならなかったのだ。道徳は世界の内部で作られたのであり、神にその起源を求めてはならず、文献を辿ることによってその起源を探るべきなのだと。あまりにも当たり前すぎて、そんなことを偉人が強調するのは変だ思われるかもしれない。しかし、それが当時の世界にとっては非常に大切なことだったのだ。
現代の我々にとってごくごく自然としか思えないようなことを、過去の偉人が繰り返し強調すること。どうしてこれほど偉大な人物がこんなにも当然のことを、と思う。
しかし実際は事情が逆である。
彼らがその重要性を繰り返し強調したからこそ、現代の我々がそれを当然のことと思うに至ったのだ。
同じ事は、例えば構造主義にだって当てはまる。
構造主義というのは、これは軽い冒涜に当たるのかもしれないが、本当の本当にぶっちゃけて言えば、「個人や社会にってものの考え方って違うよね~」という趣旨の考え方であり、それ以上でもそれ以下でもない。本当に当たり前のようにしか思えないのだが、紛れもなくこの考えは1970年代に日本の大学で「流行った」ものであり、つまりそれ以前の時代には当たり前ではなかった考え方なのだ。
あまりにも偉大過ぎるが故に後の時代にありふれたものになってしまうというのは何も珍しい現象ではない。今でも英国人がシェイクスピアの劇なんかを人生で初めて見に行くと、日常で耳慣れた紋切り型が登場することがあまりに多いのでびっくりするという。
我々現代人は、ニーチェが世界を見たように、構造主義者が世界を見たように、過去の偉人が見たように世界を眺める事を極めて自然な形で体得している。
しかし、何百年経っても一般的にならない思想というのも存在すると思う。
未だに著作を一冊も読んだことがないのに彼の話をするのは憚られるのだが、例えばカントがいる。
想像してみよう。私の隣に友人がいる。私はおもむろに懐からライターを取り出し、サッと彼の手の甲に近づけて火を灯す。彼は熱さに仰天して飛び上がり、怒り心頭で私に殴りかかろうとする。私はそんな事は意に介さず、落ち着き払ってこう言うのだ。
「今貴方が熱いと感じたのはライターの火のせいですか?」
何を言ってるんだこいつは、と思うだろう。良いんだそれで。それが普通だから。でも私はそれを普通だとは思わない。
この様な類の疑問を、スッと受け入れることの出来る人間と、それが出来ない人間との差は何によって生まれるのだろう。誤解しないで欲しいのだが、私は決してどちらかを上に置いているのではない。というよりはむしろ、この様な話を真面目に聞ける人間など病人以外の何者でも無いのだ。
しかしながら、ニーチェやレヴィ=ストロースのような人物も、当時の風潮からすれば病人以外の何者でも無かったのは容易に想像できる。それにも関わらず、彼らの思想というのは、不完全な形ながら、大陸を超えてこの遠い島国にまで綺麗に浸透したのである。
世界を支配した病人と世界に敗れた病人の差は、何によってもたらされるのだろう。あるいは我々が病人の言を理解出来るかどうかの差は、果たして何によってもたらされるだろうか?
ニーチェ自身は、『道徳の系譜学』の中で己の生涯を振り返りながらこう語っている──彼の世界に対する根本的な疑念は、全く先天的なもののように思われる。何故なら彼の生まれも育ちも何もかもが、彼の疑念とは全く対立するところにあるからだ──と。彼の父親は敬虔な牧師であり、彼自身も初めは神学を学ぶために大学に入学した。それでも彼の世界に対する疑念は、遂に拭われることはなかった。
世界に対する疑念が先天的なものであるか後天的なものであるか、私には判断しかねるのだが──いずれにせよ、我々病人の群れ、何もかもを疑り、疑る事を盲信して生きる他無いのだ。
プロフィール

ルーミア厨

Author:ルーミア厨
えへへ

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR