何も求めないということ

最低の気分と、最高の気分と。人間の頭というものは本当に不思議なもので。
さっきまでの陰鬱な気分は、嘘のようにどこかへ吹き飛んでしまった。私の人生に明かりを投げ込んだのは、皮肉にも自分の口から発された一言だった。

「何も欲しくない」

自分の書いたメッセージを見て、唐突に思い出した。その瞬間まで全部忘れていたのだ。私には「そういう時期」があることを。中学2年生の時から始まって、最初は3ヶ月おきに、歳を重ねるに連れて頻発するようになった、何の前触れもなく不意に私を襲う、あの感覚のことを。
虚無というのは何も感じない事でなく、他の何にも似つかない暴力的な不快感に全身を支配されること。生きる意義が見出だせないのではなく、「死にたい」という衝動にひたすら耐え続けること。それに襲われている間は、それが「それ」だと気付かない。
今日の私は気がついた。自分が今異常な状態であることに。極めて一過性の、日常茶飯事の、少しすれば忘れてしまうような、人生にとってどうでもいいような一時に、心を奪われていることに。私は覚えていたのだった。「そういう時」の自分が、しきりに「何も欲しくない」と口にすることを。自分の発言が異常性を帯びていることに気付いた瞬間、天啓が私の体を貫くような妙な感覚が走って、急激に精神状態は快方へと向かい、5分も経った頃にはどうして自分があんなに死にたがっていたのか思い出すことすら出来なくなっていたのだった。
もう、思い出せないなぁ、自分が何考えてたのか。湯上がりの余韻に浸りながら、そうぼんやり考える。どうして自分があんなに死にたくなっていたのか、本当の本当に、欠片も思い出せない。あれからまだ30分も経っていないというのに。どうして精神状態が急激に回復したのか、その理由もわからない。「自分が今異常だ」と認識した、たったそれだけで、完全に回復した。私の「あの感覚」は、器質的な物ではなく、神経症的なものなのだろうか。どちらにしても、私には操作できないという点で、全く同じことだけど。
今日は気付けたからよかった。自分が異常だと正しく認識できた。だけど、今日は運が良かったからで、たまたま口にした一言が「典型的な」異常時の発言だったから気付けただけで、それがなかったら、きっと今頃まだ苦しんでいただろうし、あと数時間は苦しみ続けていただろう……。その間に、異常な私が何を考えるのか、全く分かったものじゃない。
かろうじて覚えているのは、ついさっきまで私は、死にたい傍ら、散歩に出かけたいと思っていた。深夜、冷たい風が吹きそそぐ中、薄手の服で、ただ歩くだけ。誰もいない世界を一人で歩くのは素敵なことだから。私には分からなかったのだ。どうしてあれほどまでに死にたいと思いながら、散歩したいだなんて極めて人間的な欲望が同時にこみ上げてくるのか。何も考えられなくなったせいで、肉体的な満足しか得られなくなり、気持ちよく風に浸りたいと考えるようになったのだと、そうさっきの私は解釈していたけれど、今から見れば、どう考えたって違う。あの時私が考えていたのは、真夜中に、たった一人で、外を出歩くというのは……。正常な人間が考えるような、なんとなく風に当たりたいだなんて、そんな真っ当な発想じゃない。私が考えていたのは、誰が見たって、自殺の下準備……。
多分、本当に出かけていたとしても、今日は死にはしなかっただろう。それでも、風に当たりながら、私の目線は歩いて5分の大通りに釘付けになっていただろう。目の前を通り過ぎる車を、吸い込まれるように見つめていただろう。まだ手の届かない、でも近い未来に手が届く、私の願望を叶えてくれる、素敵な手段の一つとして。あるいは私は、橋の方まで出かけていたかもしれない。この高さなら、頭から落ちれば死ねる。頭から落ちなくても、深夜の冷水なら溺れて死ねる。そんな風に水面を見つめながら、自殺の予行演習をして、それで満足して帰宅していたに、きっと違いないのだ……。
今は──生きたいのか、死にたいのか、あまりよく分からない。この記事を書き始めた時と、また考え方が変わってしまった。疲れてきているのかもしれない。死の誘惑に負けそうになる。死がとても素晴らしいものに見える。もう、よく、わからない。
セロトニン、だっけ。こういう感情を引き起こすのは、少ないと良いんだっけ、多いと良いんだっけ。もう忘れちゃったけど。脳の方で、そういう調節する機能が上手くいかないと、考えが5分で変わって、元気になったり死にたがったり、もう、よく分からなくなっていて、自分が何を考えているのか、どこにいるのか、ああ、また辛くなってきた。よくわからない。何考えてるのか、よく、わかんない。ねようかな、とりあえず。ねよう。そうしよう。ねる・・・・ねるって、なんのためだっけ。ええと、うん、わかんないや。ねると、どういうふうに、いいことがあるんだっけ。なんのためにねるんだっけ?確か寝ると楽しいとか、そういう事を考えていた気がするけど、もう今の私には寝るのがあんまり楽しいようには思えない。なんだっけ、何のために、何が楽しくて、なにが・・・。思考能力の低下、こういう時は、寝るのが一番いいんだけど、ねる、ねるのは、なんのため、だっけ。よく、わかんなくなってきたので、もう、やめます。

「女性の社会進出」という名の専業主婦に対する差別について

ジェンダーには非常に奇妙な非対称性がある。
「女性の働ける社会を作れ、専業主婦は性の押し付けだ」と声高に叫ぶ女性は山ほど居る。しかしながら、「男性が専業主夫になれる社会を作れ、働かされるのは性の押し付けだ」と男性が叫ぶのは聞いたことがない。ジェンダー問題というのは、常に「それが女性に押し付けられている」という形で語られる。
こんな反論があるかもしれない。(日本の)社会というものは根本的に男性に有利なように出来ている。男性には何の改革も必要ないが、女性にとっては必要な改革が山ほどある。性差別の撤廃が常に女性の側から叫ばれるのは、社会のあり方が女性にとってしか不平等でないからだ、と。
なるほど、一理あるかもしれない。しかし私はその様な反論に対しても断固とした「ノー」を突きつけたい。
冷静に考えてほしい。専業主婦と社会人の一体どちらが幸せなのか。
家事と仕事というのは、労働としての質が違う。
貴方が社会人であるならば、仕事というものは「やればやるほど量が増える」。10時間で片付けられる仕事を3時間で終わらせられるようなると、今度は浮いた7時間分の新しい仕事を押し付けられる。その7時間分の仕事を2時間で片付けられるようになれば、今度は浮いた5時間分の仕事を……。社会人の仕事というのは、いくらやっても減ることがない。働く時間は定年になるまで一秒も変わらない。貴方がどんなに頑張っても余暇の時間は増えない。
それに対して家事というものはやればやるほど労働が減る。1日に2時間かかっていた清掃を30分で終わらせられるようになったからといって、赤ちゃんが以前の5倍大便をするようになったので浮いた1時間半が相殺されてしまった、等ということは絶対に起こらない。家事は効率化した分だけそのままそっくり余暇が増える。増えた余暇で趣味をする事も出来るし映画だって見れる。育児が好きなら子供に構ってやればいい。
この様に考えたとき、賃金ほど入らないものの、家事の方が仕事よりも随分楽な労働であることは明らかである。数ある労働の中で、家事はかなりイージーな部類に入る。
ところがいわゆるフェミニストが主張することは真逆である。彼女達は「私達に専業主婦を続けさせろ」ではなく「私達に社会進出させろ」と言う。真に奇妙なことに、「我々にもっと楽をさせろ」と言うのではなく「我々にもっと酷な労働を押し付けろ」と言うのである。
あのような主張がもはや「女性に不利な社会制度の撤廃」を目指していないことは誰の目にも明らかである。
女性の社会進出を唱えている人達の真の目的は一体何か。彼女達は、一体どのような動機によってわざわざ好き好んで過剰労働を求めているのか。

結論を言おう。私は現代のフェミニズムを、「女性が男性ジェンダーを内面化した結果」だと見ている。
現代の女性の一部は「働きたい」と思っている。「社会の中で役割を与えられ、困難を乗り越え、労働を通して自己実現する主体」になりたいと望んでいる。ヘーゲルやマルクスに始まる近代ヨーロッパの典型的な人間観である。「社会人になりたい」という主張は、上に述べたように労働量の多寡を問題にしているのでなく、自我の支えに対する渇望によって支えられているのである。
しかしながら、現代思想史に登場する名だたる思想家の誰一人として、話の主体を「女性」として想定してなどいない。彼らがイメージしていたのは常に社会の中であくせく働く男性の姿である。皮肉な話だが、「女性に社会進出をさせろ」というのは、本人たちは「女性にジェンダーを押し付けるな」と言っているつもりで、実質的には「我々女性をもっと男性化しろ」と言っているのである。女性の社会進出とは、結局、女性の男性化である。

まあ、しかし、そういう生き方がしたいというのなら、それでも別にいいだろう。私だってかわいい女の子になって大好きな人になでなでされてぎゅーってされてふわふわしたいとか毎日のようにクソみたいな妄想を垂れ流しているのだ。性別を越境しようと時間を逆流しようとどういう風に生きるかなんて個人の自由である。しかし、それを社会の一風潮として支配的にしようと言うのなら、私はそれを絶対に許さない。
世の中に居るのは働きたい女性ばかりではない。普通の男と結婚して、普通に家事をして、子供も産み、家庭を築き、国を支えて、結構な人生じゃないか。彼女達の人生のどこに問題があるのか。しかしフェミニスト共はこういったごく普通のありふれた人生を「専業主婦は社会によって押し付けられた理不尽な労働」等と蔑んだ目で見下すのだ。一体どっちが差別主義者なのか分かったもんじゃない。女性の社会進出を進めることと専業主婦を社会の下層階級に置くことはコインの表と裏である。
自分が社会人になりたいというなら、なればいい。現状のシステムはその可能性を十分担保している。フェミニストが新聞や雑誌なんかにお呼ばれして「女性の働ける社会を」と堂々と主張できている現状こそ、女性が立派に社会進出出来ている事を正に証明しているではないか。一体何を想定して「女性の働ける社会を」等と宣っているのかまるで意味不明なのである。そういう風に主張している自分が既に立派に社会人として働いているというのに……。
私はこれ以上ごくごく一部の女性が「専業主婦はジェンダーによって女性に押し付けられた卑しい仕事」というふざけた主張を広めることに我慢ならないのだ。どう考えたってフェミニストは生粋の差別主義者である。
専業主婦になりたい人が専業主婦になれて、社会人になりたい人が社会人になれる。今のままで良いじゃないか。もうこれ以上何を望む必要がある?そんなに専業主婦に対する差別の目を広めたいのか?養われていることは恥ずかしいことだという意識を植え付けたいのか?お前らが専業主婦の事をどう思おうと勝手だがそういうことは自分の中だけでやってくれ、他人の考えていることにまで干渉しようとしないでくれ、率直に言う、お前らのやってる事は純粋に迷惑だ。

一体何故こんな事に!

一体何故こんな事に、一体何故こんな事に。そう思いながら毎日生きてる。
私はね、学校でいじめられて、最終的に高校を途中で辞めた人間です。でもさ、今となっては、いじめは「あって当然」「ガンガンやるべき」で、それを社会が子供に認知させなきゃいけないって思ってるわけですよ。
これはさあ、憎しみの連鎖とか、虐待を受けた子供は自分が親になった時に虐待しやすいとか、そういう話じゃないんだよねえ。虐げられる者としても、そういう立場を取らないと困るってことなんだ。
私はさ、明らかな発達障害児でさ、いや発達障害って言葉の専門的な定義は知らないから不用意な言い回しをするかもしれないけどね、まあ挙動不審でコミュニケーション障害で気持ち悪い、のけものにされて当然の存在だったわけですよ。大人になった今だから分かるけど、当時私の事を嫌っていた人達の判断はとってもまっとうだっただろうなあ、と。
あの段階で周りの人達が言ってくれりゃ良かったわけですよ。「それは君の行動に問題があるよ」って。私は自分の行動を出来る限り修正して社会に適応していくことが出来たはずだ。でも私にはそれが出来なかった。何故か。

「いじめる奴が悪くて、いじめられる奴は悪くない」って親も先生もマスコミも、みーーーーーんなが口を揃えて同じこと言ってたからなんですよねえええええ。

結局自分の側に問題があったのに気付いたのは16歳か17歳くらいの時ですよ。まあその頃にはもう手遅れでしたね。十数年かけて植え付けられた他人に対する恐怖心はもう一生治らないですよ。死ぬまで他人に怯えながら暮らしていくしか無いですよね。もし小学生の頃にもうちょっと自分の行動を修正する機会が与えられていたらもっと別の人生があったろうになあって思うんです。ほんとに。
後先考えずに「差別は良くない」とか言うクソ野郎共のせいで私が被った被害は他人に対する恐怖心だけじゃないですよ。一番甚大な被害を受けたのは自我のあり方です。
「君は悪くない、君のことを嫌う奴らが悪い、君はこんなに優しくて素晴らしい子供なのに、君は悪くない」式の洗脳を十数年単位で受けてくると何が起こるかって話なんですよね。自分の中の素晴らしい部分しか目に入らなくなって、それだけが自我の支えになる。逆に、自分の中の悪い部分は積極的に無視するようになって、全く興味が持てなくなる。
私の自我の唯一の支えになってしまったことが勉強で、それ以外の事は一切が無視された。洋服にも興味が持てないし、おしゃべりにも興味が持てないし、スポーツにも流行りの音楽にも興味が無く、木村拓哉の顔も分からない、芸能人の話をされても私の知っている芸能人なんて本当の本当に一人も居ない、ただ起きて飯を喰って勉強して帰って寝るだけ、そんな機械みたいな人間が出来上がってしまった。
私の事をいじめていた奴らはみんな低俗で最低の人間だと言われた。そういう奴らはみんな休日に友達と出かけてカラオケに行ったりおしゃべりをしたりしていた。だから私は休日に家に居ることを高尚で素晴らしいことだと思うようになったし飲み会が大嫌いで仕方なくなったし意味のない世間話が出来なくなった。「普通の人達」が出来る一切のことを私は出来なくなった。「普通の人達」は最低の連中なんだって小さい頃何度も言われたから。私は大人のいうことを鵜呑みにして「普通の人達」の行動を一切真似しないようになり、それどころか逆の行動を取るようになった。最終的に命の価値も生きてることのありがたみも全く理解できないような生きてるんだか死んでるんだかよくわからないような人間になってしまった。
私の精神の唯一の支えになった学業の方はどうかというと、まあそれなりに順調なんだけど、これもかなり歪んだ形になってしまった。勉強が、他人を見下すためだけの道具にほぼ完全に化けてしまった。あるいは先生に気に入られて褒めてもらうためだけの道具になってしまった。私は本当に歪んでしまった。
もう生きる事に対して興味が持てない。勉強して他人を見下して偉い人に褒めてもらうのは楽しい。それだけが楽しいから生きてる。でもこんな人間と付き合いたいと思う奴は居ないし、私だってもう他人と付き合いたいと思わない。知り合いと無駄におしゃべりをして楽しいと思えるような脳の神経がもうとっくの昔に焼かれてしまった。本当に生ける機械のようだ。
しかもさ、私が今きちんと大学にいけてどうにか社会人になれそうなのって、こういう事あんまり言いたくないけど、頭が良かったからなんだよね。生まれつき。小学校で引き篭もった頃に受けさせられたウェクスラー式のなんかのテストで言語性IQ135だっけ。せいぜい5%かそんくらいだから希少って程じゃないけど、普通の人よりかなり恵まれた状態で人生スタートしたのは確かだよね。お陰様で小学校にも高校にも行けなかったけど勉強だけして人生どうにかなりました。生きるのは辛いけど。
私はたまたま頭が良かったし先生にも恵まれたから受験戦争どうにかなったけど、頭が良くなかった上に私と同じような環境に置かれてた人達はみんなとっくの昔に社会からドロップアウトしたと思うんですよね。尋常じゃない量の恨みを社会から植え付けられて。
「君は悪くない、いじめている奴らが悪い、君は優しくて素晴らしい子だ」。小さい頃からそういう教育を受ければ、いじめている奴らに対する憎悪の念が湧く。だって邪悪なるものは自分ではなく相手なのだから。自分がいじめられているのは、自分に責任があるのではなく頭の悪いあいつらに原因があるのだから。まあ小学生くらいならそれで誤魔化せるわな。ところが12歳を超えて中学生になると話は別だ。理性的な自我が芽生えるし客観的に自分を見直す能力も身につく。この辺でみんな気付くのだ。自分が嫌われているのには自分に原因があることに。そして、自分に「素晴らしい部分」なんて何一つ無いことに。でももう手遅れなんだよね。
私はたまたま勉強ができたからいいよ。数カ月おきに受けされられた学力テストとかいうので得意科目の偏差値が70割った事は無かったし高校2年生の秋には英語の偏差値は87。青天井だよね。2年の夏に文転して日本史と現代文の勉強始めて高3の冬に3科目総合で83。国語はまだ1年しか勉強してなかったし日本史なんて1年勉強してないのにさ。強くてニューゲーム。私には幸いな事に「君は優しくて素晴らしい子だ」の「素晴らしい」の部分があったよ。かろうじてあったよ。人生がどんなに辛くても私を支えてくれるものが。他人に対する憎悪がどれほど増して世界に対して興味が持てなくなったとしても、洋服のセンスが二度と習得できなくなり、人間が嫌いになり、ありとあらゆる娯楽を「いじめてた奴らがやってた」という理由だけで拒絶するような体になり、それでも勉強だけは出来るからかろうじて生きていけるよ。勉強だけは出来るから、かろうじて、生きていけるけど、さあ。
私は本当に恵まれてるんだ。私みたいな奴は一体何人に一人くらいの割合で存在するだろうね。奇跡的な確率で生まれて奇跡的な確率で良い先生に出会い天文学的な成績を叩きだした私が、それでもまだ、「かろうじて」生きれるレベル。私ですら、生きているのが、本気で辛くて仕方ない。
さあ、ここで考えてみようか、私であり私でない人達のことを。小学校でいじめられ、「君は優しくて素晴らしい子なんだ、周りの奴らがみんな悪いんだ」と洗脳を受け、しかも不幸なことに(というより普通なことに)何の取り柄も無いことに10代の半ばで気付いてしまった人達のことを。
植え付けられたのは、世界に対する、通常の人間に対する途方も無い憎悪。得られたものは何もない。自分に素晴らしい部分なんて一つもなかった。どう考えたって、自分の事をいじめてた奴らの方が、人間関係上手くやってるし、楽しそうにしてるし、妬ましくて、かといってそれを「羨ましい」と思う感情すら意識下では憎悪が拒否して、まあ、そんな状況で人間としての感情をまともに維持しろって言う方が無理な話ですよね。よくてうつ病、普通なら自殺、かろうじて生きててもニートでしょうね。「いじめてた奴らがやってた」というだけの理由で外に出たりおしゃべりをしたり買い物をしたり、そういう娯楽の一切を体が拒否するようになってしまうから、食べて寝るだけの生活くらいしか出来ないようになってしまうんですわ。ニートの生活というのはそういうものです。あらゆる娯楽を無条件で体が拒否する病態なんです。
「いじめてる方が悪い」式の教育はいい加減改めて欲しいんだよね。何が悪いって、そういう考え方が苦しめてるのって現にいじめられてる我々の方で、しかもいじめてる奴が良心の呵責に苛むかって言われたら全然そんな事無い。苦しむのはいじめられっ子だけ。これ絶対酷くねえ?
いい加減さ、そういう風に現実をごまかすのはやめてほしいんだ。そりゃな、確かに、いじめてる奴の方が明らかな問題児で、いじめられてる奴はたまたま標的になっただけ、そういう事例は確かにあるかも知らん。だけどさ、明らかに私みたいに挙動不審でコミュニケーション障害で気持ち悪くて、そういう奴にまで「君は悪くない」と言うのはやめてくれ。その後で軌道を修正してまともな人生を送れるようになるまで一体どれほどの労力と運が必要だと思ってるんだ。こういう教育を受けちまった奴はもうその時点で人間として生きられる可能性が剥奪されてるんだよ。自分の中に何も良い物なんてないのに「君は優しくていい子」だと言われ、相手の方が正常なのに「あいつらが悪い」と言われ、虚無に対して愛着を抱き世界に対して憎悪しか抱けなくなる。これがこの世界で、「いじめられっ子のために」行われている教育。一体何のためだろうね?
「いじめをやるのが普通、むしろいいこと、がんがんやれ」と私は主張していきたいと思っている。そしてこういう主張が一刻も早く社会に浸透すればいいと思っている。しかしそれは、私が他人を虐げることに快楽を覚えるようなクズだからでもなく、虐待の連鎖を生んでいるのでもなく、それがいじめられっ子を救済するために真っ先に成されるべきことだからだ。
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