それは野球の話です

丸亀製麺で申し訳程度の昼食を啜りつつ、近くに座っていた高校生カップルの会話を盗み聞きしていた。

「私ね、法政大学受けることにしたの」
「ホーセー……って、どこだよそれ」
「一応、六大学の一つなんだよ」
「……(絶句)」
「先生が、お前なら行けるって」
「六大学って、お前……仮に六大学の一番下だとしてもな、バカが入れるわけ無いだろ。そこ偏差値どれくらいなんだよ」
「60……65……くらい?67かな」
「お前、そんな大学、偏差値60無かったら、試験を受けることもさせてもらえないだろ」
「ううん、試験は誰でも受けさせてもらえるんだよ」
「そうだとしてもなぁお前……」

彼女の大学受験の結果の事を考えると私は眩暈がした。
というのも……「法政大学」という単語を知らないボーイフレンドのことは別にしても、このご時世に「MARCH」という単語を知らず「六大学の一つ」という概念を使う程に受験産業から切り離された高校生が法政大学に合格するのは非常に困難に思われたからである。
もっとも、「このバカにマーチとか言っても絶対分からへんし野球の単語でもないと話通じんやろw」くらいの計算高さをもってそういう発言をしていたとしたら、結果は分からないだろうが……。

タイトルなし。

今週とある先生がこんな事言ったんですがね、「最近の大学生はなんか勘違いしてるよなぁ。『先生、試験はダメだったけど出席はきちんとしてたので単位を……』みたいな事言うやつほんと多いんだよ。何勘違いしてんのか知らないけど、出席したっていうのは試験を受ける権利があるっていう事だから。出席したら単位がもらえるって事じゃないから。まぁそういう先生もいるみたいだけど……」って。
これねえ、そういう大学生が日本全体として急激に増えてるっていう事態については同意するんですが、実は現象としてはもうちょっと深刻だと思うんですよ。
一応相手が教授だからへりくだった話し方をしてるだけで、本当に言いたいのはこんな感じだと思うんですよ。

「試験ちょっと失敗しちゃったけど、出席はきちんと真面目にしたのでどうか大目に見て下さい……」

じゃなくって、

「てめーのクッソつまらない講義に15回も付き合ってやったんだから単位くらいよこせや」

こうだと思うんですよ。
これは本当に、本当に深刻だと思うんですよ。
私は大学でそれなりに勉強してるから分かるんですけどね、人の話を聞くっていうのは面白い事なんです。楽しい事なんです。気付いたら90分過ぎてて、えっもう終わっちゃうの、もっとお話して欲しいのに、思わずそう口から漏れてしまう、そういう営みなんです、人の話を聞くっていうのは。決してつまらないことなんかじゃない。勿論本当にクソつまんない話をする先生もいっぱいいますけど、こんな大学だから、全身が歓びにうち震えるほど面白い話をしてくれる先生なんて腐るほどいるんですよ。それなのに大学生の多くはこの歓びを知らない。授業を聞くのはつまらない事だと考えている。スマホをいじくっている方が楽しいと思っている。これは本当にこの国の危機ですよ。
しかしこれが大学の責任かっていうと、全然そんなことない。大学生活をどう過ごすかっていうのは、いわばその人の人生、それまで過ごしてきた小学校からの12年間の結実。12年も猶予を用意されておきながら、「人の話を聞くのは楽しい」って本当に簡単なことも教えてやれなかった、学校教育が悪いんだと思うんですよ。
どうして学校教育がそうなってしまったかっていうと、「とにかく面白い話を出来る人間」「その専門分野について知的好奇心をそそる話の出来る人間」を積極的に先生として採用してこなかったからなわけですよ。人間性がどーだこーだ、とか言ってね。
で、それじゃあ私はどうして人の話を聞くことの歓びを大学に入る前から知っていたかと言えば、学校にろくに通わないで塾と予備校で生涯を過ごしてきたからなんですよね。学校よりむしろ、そういう機関にいる人の方が、勉強することの楽しさを教えるのにずっと長けていた。
塾や予備校が偏差値というモノサシを広めたから日本はダメなんだ、とかどうこう言う向きも多いですが、私はそれは実のところ全く逆なんじゃないかと思ってるんです。

死と政治

物凄くやべえ世界の闇に気づいた感じがあるんですが、結論だけ先に言っても仕方ないので、まず話の枕を作ろうと思います。今日の講義で聞いた話です。

その先生は専門の関係で被災地に呼ばれる事が多いんだって。勿論被災地の問題は色々あるんだけど、実はとても意外な職業が物凄い生き地獄になっているのだという。その職業っていうのはね、ズバリ公務員。
被災地の公務員は、当たり前だけど、元々被災地に住んでいる。つまり自分自身が一人の被災者。家を津波に流され全てを失い大切な人が何十人も死んだ、という状況は他の被災者とビタイチ変わらない。それでも慰めてもらうことは叶わず毎日死ぬほど働かなければいけない。だって公務員だから。
公務員ならどこでも午後5時に帰れるみたいな風潮あるけど、被災地の公務員の定時は余裕で11時です。しかも土日返上のおまけつき。3年経って被災地全般の労働環境は改善されつつあるけど、福島の役所に限っては未だに毎日この状態らしいです。
ここに追い打ちを掛ける要素が加わる。公務員だって一人の被災者なのに、そんな事にはおかまいなしで住人は好き放題に罵詈雑言を浴びせる。「仕事が遅い」「あの案件はあれから一体どうなったんだ」「無駄遣いをやめろ」「もっとテキパキ働け」等。実はこういうクレームの大半は、「国に何を言っても動いてくれないから顔の見える適当な相手を怒鳴りつけて鬱憤を晴らそう」という非常に歪んだ動機から来ている。しかしどんなに理不尽なクレームであっても言い返すことは許されない。だって公務員だから。
更に輪をかけて事態を悲惨にするのが、やはりというかなんというか、彼らが公務員であるというその事実。言い換えれば、彼らが国の直属の部下、国の身内であるというその事実。国の目の前で助けを求めているのは「被災者」と「被災者兼身内」という二つの存在。手が足りなくてどちらか一方しか助けられない時、国は身内を優先するわけにはいかない。この世には世間体というものがある。身内である公務員の保護は、例え彼らが立派な被災者であろうと、どうしても後回しになってしまう。こうして休日も無く毎日午後11時まで働きながら他の被災者から怒鳴り続けられるという生き地獄は全く放置された。
で、去年くらいの話(正確な日時を聞き取り損ねた)らしいんですが、遂に福島で公務員が首を吊って死にました。流石にこれはやばいということで、国も慌てて労働環境の改善に向けてようやく動き始めた。人手に余裕のある地域の公務員を被災地に派遣するプログラムが組まれたのですが、半年という期限で大阪から派遣されたある公務員は三ヶ月で首を吊って死にました。もう、なんか、とんでもないですね。

ここまでが話の枕でしてね、いや枕長えよ、でもここに更にもう一枚、今の話とは全然関係ない引用を持ちだして枕を噛ませる。枕はCMの後もまだまだ続くよ!

学校におけるいじめの対策はここ数十年の間に世界共通の課題になったんですけど、具体的に何がきっかけで急速に広まったかっていうとやっぱり生徒の自殺が発端なんですよね。スカンジナビアの方らしいです。この生徒の自殺がきっかけでいじめという現象は国際的な学会で話題になり、日本の学会にも一応持ち込まれたはしたのですが、日本全体の課題として認知されるまでには少し時間がかかりました。で、具体的に何がきっかけで日本全体に広まったかって言うと、やっぱり生徒の自殺が発端なんですよね。

話の枕終了。ここからが私の考えたことでね、枕の割に随分短いなって感じですが、「考える」という行為は常にそういうものだし仕方ない。

被災地の労働環境の改善に向けて国を動かしたものはなんでしょう?答えは自殺。学校環境の改善に向けて世界と日本を動かしたものはなんでしょう?答えは自殺。
この社会で私達が何かしようと思ったらね、もう死ぬしか無いんですよ。首を吊って死ぬ以外に世界を変える方法が一つも無いんですよ。でも死んじゃったら世界が変わろうとどうなろうと意味ないじゃないですか。一体どうしろっていうんですか。どうやって生きていけって言うんですか。別に国も会社も学校も世界を変える気が無いわけじゃないんですよ。だって人が死んだら彼らは動くんですもん。動く能力も、動くつもりも潜在的には一応あるんですよ。でもそれは誰かが自殺しないと動かないんですよ。この機構は自殺以外に動力を持たないんですよ。おかしいじゃないですかそんなの。どう考えたって部下に死なれてから行動を始めるより部下が生きてる間に行動を始めた方が損が少ないでしょう?どうせ行動するのなら。一体何で死んだ人間の言にだけ耳を傾ける必要があるんです?一体どこからこの世界はこんなにも狂ってしまったんです?
もう私にはわからないですよ。どうやって生きていけばいいのか分かんないです。本当はこういう生きづらさをどうにか改善するのが政治っていう営みのはずなんですけどね、いや政治家のするような大層な規模のものじゃなくても我々一人一人が主体的に世界を変えられるはずだという意味合いでの話ですよ、それは私達に出来る、いや出来たはずなんですが、いつのまにか私達は、その手で首を絞めて死ぬ以外に政治の手段を全て失ってしまったんです。

自分の世界に引き篭もらされた我々に

免許を取るために知的にアレな子供が通う学校(申し訳程度の検索避け)に研修に行かなきゃならず、その研修の案内が今日あったんですが、案内の中でこんなエピソードが美談として紹介されました。

「保健室で生徒の着替えを手伝っていたら、突然髪を思いっきり引っ張られた。あまりの事に、しばらく何が起こったのかも分からなった。かろうじて事態を把握すると、今度は理由が全く分からず呆然としてしまった。こんなに優しく接してきたのに……。すると近くにいた生徒が私の困惑を察したのか教えてくれた。『先生、それは◯◯ちゃんが普段からする愛情表現なんだよ』と。愛情表現の形は人それぞれなのだと身をもって知った。この研修に来れて本当に良かったと思う。」

みたいな趣旨。
これが「美談」として紹介されている事実に私は本気で呆れた。
「この子は今貴方の髪を思いっきり引っ張りましたが、これは貴方を怒らせようとしたのではなく、この子なりの愛情表現なんです」なんて宣ったところで、納得して許してくれる健常者が一体何%程度居るっていうんだ?もし相手が年配で髪の束がブチィっと行ったりしたら謝るだけでは済まなくなるだろうし……。地面に引き倒して頭でも打ったらどうするんでしょうね。最悪、人を殺しますよ。
この生徒に必要なのは、「それを普通の人にやったら絶対に怒るし、危険だ」と理解させ、行動を未然に防ぐことだ。勿論それが非常に難しい(あるいは出来ない)から知的にアレなガッコーに通ってるわけだけど、肯定してしまうのは完全に逆効果だろう。
社会に出す気が無いんなら、そもそも学校なんか通わせないで、生活保護でも受けさせてりゃ良いんですよ。重度の知的障害なら普通に申請が通るでしょうから。それにも関わらず学校に来ているからには多少なりとも社会に適合させてあげないといけない。それなのに、完全に社会から孤立するような教育を施して、こいつら、一体何のつもりなんだ?
誰かこの子たちに言ってやれよ。非常に残念ながら君たちは普通の人間なら息をするように出来るはずの事を一生かけても出来ないかもしれない、出来るとしても健常者の数百倍の労力を払わないといけないかもしれない、そういう不幸な星の下に生まれてしまったのですって。「だから」僕達は頑張るんだって。本当に取り返しがつかなくなる前に、未成熟なまま大人になってしまう前に、どうにかして社会に適合するんだって。誰か言ってやれよ。幼い日の私に、誰か、誰か一人でもいいから言ってくれれば良かったのに!!
なあ、お前ら、解ってるのか、お前らが教育してるのは不幸の塊だ。お前らのせいで私は今不幸なんだ、そしてこれから何万という知的にアレな子供が不幸になる。これは全部お前ら教師のせいだ。「そのままの君でいいんだよ」なんて無責任な世迷い言を垂れ流して我々を社会に不適合なまま送り出したお前らのせいだ。そしてお前らはこの重大な犯罪に対して何の責任も取りやしない!!
相手の幸せをろくに考えもしないで自己満足のために教育に携わるのはもうやめてくれ

哲学の世界に私が抱く致命的な不信感について

大学で物理学を研究し齢六十を数える教授に例えばこういう質問をして、こういう返答が帰ってきたら、あなたはどう思うだろう。

「物理学のどんな事を研究してらっしゃるんですか?」
「ニュートン力学を研究しています」

多分、「は?」が率直な回答なんじゃないだろうか。なんだってそんな古い物を未だに研究し続けてるのか、と。とっくの昔に物理学の世界はずっと先に進んでいるし、この世の真理に近付くために必要な研究はもっと他にあるじゃないか、と。(理系の知識には疎いから、少しいい加減な事を書いたのかもしれないけど、目を瞑って欲しい)

しかし、哲学の世界なんかでは、逆にこれが普通になる。

「哲学のどんな事を研究してらっしゃるんですか?」
「ニーチェを研究しています」

私はこういう応酬を一番上の応酬と同じくらい馬鹿馬鹿しいものだと思う。どんなに偉い哲学者でも高々個人である。個人は必ずどこかで間違える。その人の思想をよく咀嚼した上で問題点を指摘し、世界を一歩先の姿に進めることこそが貴方の仕事ではないのか。しかし実際に行われているのは、特定の思想を無条件に礼賛し膠着させるという、この世の真理とは縁遠い非常に悲しい営みである。
勿論たった一人の研究だけで教授になった人は居ないのだけれど、しかし、研究した偉人の名前をどんなに増やしても根本的に問題を解決しないと思う。
この世の真理やら自我の真理やらに本気で辿り着こうとしていた人類の意志は、一体その過程のどこで失われてしまったのだろう……?
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