深淵が覗き返してくれない。

少女の声が聞こえなくなった。身を任せることが出来なくなった。かわいくさえずる事が出来なくなった。ここ数ヶ月、不意に彼女は消えてしまった。

私の頭は治った。

今は眠剤を飲んでいる。一時的な狂気に陥っている。それでも声が聞こえない。彼女の声が聞こえない。あの世界で一番かわいい女の子の声が聞こえない。彼女が喋れなくなった。

心が落ち着いている。いつものように死ぬ気分がしない。将来に対する漠然とした不安が無い。生きていられる気がする。毎日少しずつ頭も体もよくなっている。私は生きていける。

頭の中の少女はいなくなった。

「ルーミア厨さん」という一人称を私はよく使う。

もう彼女は完全に手の届かない所に消えてしまった。

真性の意味で彼女は私でなくなり、三人称に相応しい存在に堕ちたのだ。

それでも、ほら。

適当なページを開けば、彼女はいつだって私のすぐ側に、あの頃のまま永久にかわいく泣き続けているのだから。

昔のお前はかわいかったのに。

昔のルーミア厨さんはかわいかったなぁ。ついったーもそうだけど、ブログだってかわいかったんだ。女の子だった。かわいい女の子だった。精神を病んで受験と戦う、普通の女の子だったんだ。それがどうしてこんなことになっちゃったんだろう。
もうルーミア厨さんはかわいくないんだ。かわいい文体は、まだ使えるかもしれないけど、属人的な意味で、ルーミア厨さんは、かわいくないんだ。
このブログはかわいくないよ。こんな偉そうなことをいって誰がかわいいと思うと言うの?だいたい文体からしてかわいいそれじゃなくなっちゃったじゃないか。どうやってかわいく書いていたのだっけ。
分からなくなってきた。
かわいかった頃の自分に、戻りたい。みんなから愛されていた自分に、愛されていたことを確からしく思えていた自分に還りたい。今の私は、かわいくないから、かわいくない、かわいくないから……かわいくないからだめなんだ。

でもかわいかった頃の私も私で「他人の好意が信じられない」とか「底の抜けた壺に水を注ぐよう」とか「どんなにちやほやされても全然満たされない」とか言っていたのでしたっけね。結局私が救われていた時期なんて人生に一度も無かったということです。やれやれ。
しかしこの発言の数々はまさに真性のメンヘラというか、なんというか、完全に思春期の女性のそれですね。凄いなぁ。
メンヘラが治ったからかわいくなくなった、そういうことになるのでしょうかね。



ちょっと文体を変えてみようと思うのです。多分こうすればかわいくなるのかもしれません。こうやってかわいい女の子みたいな口調で何かを綴っていけば、ああ、でも、だめです──そんな小手先で口調を変えてみても、本当に変わってしまった取り返しのつかないものは誤魔化しが効きませんもの。ねえ、そうでしょう。ルーミア厨さんは、こんなに筋の通った言葉を書くような人ではなかったのですもの。常に発狂していて、読めないような日本語を書いて、誰かを意識したような言葉なんてまるで紡がず、だからこそ小動物かサーカスの見世物か何かのように遠目に見ているぶんには面白くて、そうやってかわいいと言われていたのがルーミア厨さんだったのです。今の私は最早そうではありません。だからこんな風に文体をちょっと女性のそれに近づけたくらいでどうこうなる話ではないのでしょう。とてもつらくて、かなしいことです。今の私がどれほど願っても絶対に手に入らないものを、昔の私が持て余してドブに捨てていたというのですから。なんて皮肉な話なのでしょうね。人生というのは、いつだってそうなのかもしれないですけど。
感覚が戻ってきたかもしれません。少しかわいくなってきたのでしょうか。それとも私の錯覚でしょうか。これは眠剤が私に見せている幻影でしょうか。寝て覚めて起きて見直したら何がかわいいのかわからないような屑の山になっているような、そんな刹那の瞬きの中にしか存在し得ないような美しさを、私は今自分の中に見ているのでしょうか。分かりません。多分、明日にはかわいくなくなっているのだと思います。私のかわいさは私にしか知覚されないのです。ナルシストというのは基本的にそういうものです。30分後の自分だって私は信じることが出来ないのですから。

以前の私であれば、今のフレーズには「30分後の自分ですら」でなく「5分後の自分ですら」と言ったことでしょう。自分を自分だと認識できる時間が長くなっていますね。やっぱり色々治ったのかもしれません。

でもやっぱりだめでしたね。今日の試みも失敗に終わったのでした。もう君はかわいくはなれないんだよ。君は二度とかわいかったころの君に戻れない。君はもうあの人には振り向いてもらえない。君はもう誰にも振り向いてもらえない。誰にも読まれない屑のような文章を生産し続けるだけの機械に君は成り下がったんだ。「誰にも振り向いてもらえない」と言われても、頭を引っ掻いて発狂してブログを3回連続で更新するような気にはもうなれないだろう?君はね、頭が治ってしまったんだよ。

おめでとう。

世界を独り占めにするということ

この奇妙な性癖と日本という国の住宅事情が複雑に絡んでいる事に私は何の疑いの余地も持たない。
私にはよくわからない奇癖がある。これは性欲とは関係ない方の癖だ。癖というか、感性というか。
私は物凄く広い建物に、例えば高層ビルや教会、誰も居ない教室、そういうところに"一人で"いることに、途方も無い恍惚を覚える。
これが最後に満たされたのは3年前の話だ。私は日曜日、予備校で試験を受けていた。試験が終わってから1時間ほど正誤と原因についてあれこれ考えをし、しかし芳しい結果は得られず、とぼとぼと1階の広々としたエントランス──しかも2階まで吹き抜けになっている!──に向かった。
どうも様子がおかしかった。こんなに広く人気の多い建物だのに、私以外にこのだだっぴろい空間に誰一人として人が居ないのだった!
その日は日曜日、しかも試験。どうも試験のすぐ後に職員たちは全員出払ってしまったらしい。残っているのは一部の警備員だけで、彼らは今ここにはいないようだった。
つまり、その階は、あの広大な空間が、全部私のものだった。
私は黒い学校の革靴を──当時はまだ高校に通っていたから──踏み鳴らし、あまりの快感にゲラゲラとを笑い声を上げて闊歩したのだった。

どうしてこんなことになってしまったのか。

一つありえるのは、そもそも人間がそういう状況が好きだということ。誰だって全能感は欲しい。そういう意味で、これは文化・個人の人生に依らず普遍的に発生しうる快感であると言えるのかもしれない。
しかしこの病的な度合いについては別の原因もあるかもしれない。つまり、日本の住宅事情。これは途方もなく、狭い。だから広い場所にいると──そしてこれが大事なのだけれど、周りに人が居ないと──途方もない解放感がする!

ところで最近は眠剤です。眠剤飲んでしかブログ書いてない。これはいいのかわるいのか。読んでいてくれる人がいれば、の話ではあるのですが。

思考実験:無限成長曲線

前提とか色々すっとばして同意してもらえるものとして書く。眠剤は頭を怠惰に、そして文章をスムーズにする。
今日のゲームで最も熱狂されているジャンルは「成長」。これは全てのゲームについて言える。レベルが上がると全能感がする。全能感を強くするためにステータスを振る。ステータスを振るとレベルが上がりやすくなって全能感が増える。全能感を行使するとレベルが上がる。以下繰り返し。
パズルとかRPGとかネトゲとかソシャゲとかフリーゲーム(アプリ)とか色々あるけど、「成長」というのが唯一の要素で絶対だと私は思っている。

ところがだ、この成長というのは、意外と上手くいかない。
適当にレベルが上がればいいというわけではない。人間には、「気もちいい」と感じるような成長のカーブがある。ネトゲ成長曲線。これは恐らく、「先に進めば進むほどレベルが上がりやすくなる」形が定性的に近い。感覚としては、根底に複利の観念があると私は見ている。クッキークリッカーが、実のところヘヴンリーチップスという複利を溜めるだけのゲームだったのを思い出して欲しい。
しかし私の知る限り、このような曲線を実現したゲームはこの世に存在しない。
常識的に言って、人間が5分遊べるコンテンツを作るには最低でも5分時間がかかるだろう。もしそれを密度の濃い有意義な5分にしたいのなら、多分5時間くらいは調整に時間がかかるだろう。(人気ソシャゲの序盤が、そして序盤だけが何故ああも楽しいのか考えてみてほしい。成長曲線が人間の脳に最もフィットする形で綿密に仕込まれているからだ。ただしそれは数十分しか持続しない。それ以上は開発者の限界を越える)

結果として、ありとあらゆるゲームが「最初の数十分が面白さのピークで、あとはどんどんつまらなくなっていく」という構造の罠に嵌まっている。こうしてゲームは使い捨てに、消耗品として私達大衆に扱われるようになった。

私はこの技術上の困難を、つまり「5分遊ばせる成長曲線の設計には5時間が必要なのでせいぜい最初の数時間しかゲームを面白く出来ない」という問題を、解決出来るのではないかと考えている。
人間が好きな曲線に合わせて、獲得経験値、必要経験値、ステータス、レベルの上がり方、「倍率で」既存のステータスを強化する新要素の解放、等の諸々の値を決定し続けるプログラム。
頭のいい数学者を一人つれてきたら、多分出来るんじゃないか。無限に楽しさが持続するような曲線の実装が。我々の真に求める夢の楽園が。
勿論値だけじゃ飽きる。そりゃ当然。でも僕らには長年ゲーム業界を支え続けてきたグラフィッカーとコンポーザーがいる。「ボタンを押すだけで爽快感を得られるような絵と効果音、しかも飽きづらく、おまけに数パターン用意」とか出来る人はかなりいるだろう。

数学者と、単純な飽きに負けないための刺激を作れるクリエイター。

これが揃った時、本当に世にも恐ろしいゲームが出来上がると思う。




まあ、そんなのどこの会社もとっくに考えてんだろうけどさ。

心の理論と知的障害児

あのたった数分間の出来事を、何週間か経った今でも未だに繰り返し思い出す。

ちょうど部屋の反対側に座っていた、特に重篤な障害を抱えた子供。よだれを垂れ流しながらウウゥーアアアー等と時々うめき声を上げる。見れば首元によだれかけまで備え付けられていた。口周りに涎が溜まってきたので係の人がよだれかけを口元に持って行くと、彼はそれを強く咥え、そのままずっと離さなかった。

ずっと離さなかったんだ。

これって「よだれかけを咥えた」んでしょうかね。本当に?ねえ施設の人、本当にそうだったとそう思う?

私の脳にこの出来事を焼き付かせた原因は、数日前に読み返した本の、とある動物実験。
人間と動物の違いは脳細胞の数の違いだけだと信じられていて、チンパンジー等に後天的な教育で人間と同じ知能を持たせようとする試みがまだ真剣に行われていた時代の頃。

ある心理学者は、手飼いのチンパンジーに様々な日常的な動作を教え込もうとした。その中の一つが、「皿を拭く」という行為。
汚れた皿を取り出し、水道をひねり、皿をこすり、汚れが落ちていくのをチンパンジーにじっと見せる。見せるだけでだめなら、チンパンジーの手を掴んで一緒に動かして教えてやる。とにかく丁寧にやっていけば「皿を拭く」という行為をチンパンジーが学習できるはずだとその心理学者は思ったのだ。
果たして、大して苦労をかけるでもなくそれは成った。チンパンジーの知能は予想の外に高かった。「汚れた皿に水をかけてこする」という動作を、確かにチンパンジーは極めて短時間に覚えたのである。

覚えたように、見えた。
確かにそのチンパンジーは汚れた皿を見ると言われるでもなく水道まで持って行って水を出して皿をこするようになった。
成功に喜んだ心理学者は何枚も何枚も汚れた皿を渡した。チンパンジーは何枚も何枚も皿を洗った。明らかに実験は成っていた。
実験の片付けで、皿を片付けようとする。

……チンパンジーが洗ったはずの皿が、まだ汚れている。
それも一枚ではなく、何枚も……。

ある疑惑が浮かんでくる。

この心理学者は賢かった。自分の実験を根本的に否定するような追証実験を考え出した上に、すぐにそれを実行に移してしまったのだ。私が彼女だったら、多分、分かっていながら不完全なデータでわざと論文をまとめあげてどこかに提出していただろう。
心理学者は、目の前で洗ったばかりの綺麗な皿を渡した。
チンパンジーは、さも当然のように、綺麗な皿を水道に持って行き、水を出してこすり始めた。

彼女の実験は崩れた。

チンパンジーは確かに、「何か」を学習した。しかしそれは人間の学習するものとは根本的に違っていたのである。

私達人間は、「汚れた皿があり、蛇口をひねって水を出し、こすり、汚れが落ちる」という一連の動作を見ると、「液体を使って所有物から汚れを祓う」という行動全体の意図をいとも容易く推測することが出来る。
だから、汚れた皿に水をかけても汚れたままだったらそれは「洗った」とは言えないし、汚れていない皿に水をかける必要はない。
チンパンジーにはこれが出来ない。こんな簡単な推論ができない。
実際にこのチンパンジーが学習したのは、「水と皿と手がこすれあう感覚を楽しむ」という、「洗う」という概念からかけ離れた概念だったのだ。だから汚れの落ちていない皿が大量に見つかったし、汚れていない皿でも水を流してこすって楽しんだ。汚れているとか汚れていないとか、汚れを水で落とすだとか、そういう概念が脳の構造からして認識でないのである。

こういう風に、「人間の行動を見てその意図を"正しく"推測する能力」のことを、専門用語で心の理論というらしい。
そして、知的障害児の心の理論がしばしば不完全であることはよく知られている[要出典]。

さっきのよだれかけの子供の話に戻ろう。

この子供は、口元によだれかけを持ってきてもらえれば、それを口で咥え、よだれが垂れ流されないように備えることが出来る。
しかしこれはただの偶然なのかもしれない。
もしこの子供が、「よだれかけを咥える(=汚れが拡散したり自分の身体に付着しないよう防ぐ)」という行為の意図を理解できずに、「歯で布を噛む感覚を楽しむ」としてしか自分の行動を捉えていないとしたら……?
そして周囲の人間が、その事に誰も気付いていないとしたら……?「よだれかけを自分でかける事ができない」程度の軽微な障害だと勘違いしているとしたら……?
根本的に「汚れ」という概念自体を理解していないことに、誰も気付いていなかったとしたら……?

その子供をずーーーーーっと眺めているに、「汚れ」という概念を理解しているようにはとてもじゃないが見えなかった。腕にいくら涎が落ちても全く意に介するそぶりが無いからだ。
「汚れ」がわからないのだから「汚れを祓う」という行為も分からないし、「よだれかけを咥える」という行為の意味も絶対に分からない。彼はただ、目の前に現れた「噛むと快刺激を提供してくれる布」に、文字通り飛びついているだけなのだ。

彼はこの学校で何年過ごしているのだろう。施設の人に「汚れ」という概念も教えてもらえず(多分教えようとしても不可能だろうが)、授業中ずーっと叱られて、出来もしない事を毎日やらされ、それで最終的に仕事にも就けないのなら、この施設はなんのためにあるのだろう。

私達は後天的に多くを学ぶことが出来るよ。でもね、脳というものはどういう類の学習が可能なのか完全に決めてしまってるんだ。脳が不完全だと、少なくとも普通の人間と同じようには、学習が可能にならないんだよ。
それなのにこの子たちは、「認知発達の速度が遅いだけで」頑張ればいつかはライン工くらい出来るようになると言われて、毎日無駄な努力を重ねていて。
「君には一生仕事は無理だから月10万もらって静かに過ごしててよ」と最初から言われるのとどっちが楽でしょうね。
あのよだれかけの子は、今日もよだれを垂れ流しながら、怒鳴られて叱られて、分かりもしない授業を受けさせられて、布一枚自分の手で掴めないのに工場で働く訓練に参加なんてさせられて、また叱られて怒鳴られて……。

あなたはどちらの方が楽だと思いますか?
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