生き辛さ

人間が他人の性格を認知するとき、状況の要因が大きく介在していることは通常知覚されない。

三人称の視点から誰かの性格を把握するとき、例えば職場の同僚で遠くに座っている人だとしよう、その人は嫌な職場にいるのでいつも暗い表情をしているだけなのかもしれないし、職場を出た瞬間に快活な行動を取り始めるのかもしれないが、自分はその人とはその職場でしか会わないので、結局職場での行動だけがその人の行動パターンを判断する材料の全てになる。そして同じく職場以外で会わないが故に実際にそういうパターンの行動を私の観測する範囲では取り続けることになる。職場という状況が固定されている限り、他人の性格についての情報は実際に正しい予測を下してくれる。
二人称の視点から誰かの性格を把握するとき、人の行動パターンはある要因によってますます固定される。その要因とはつまり自分である。あなたの話している誰かは、あなたがまさに目の前にいるという強烈な環境要因によって特定の行動パターンを取り続ける。そして、職場の場合よりますます深刻なことに、あなたがいない状態で二人称的な他人の性格から行動パターンを予測するという事は論理的に不可能であるので、二人称的に把握された性格は常に正しい予測を下す。
実際のところある行動パターンの原因がその人の内部にあるのか外部にあるのかは闇の中なのだが、私達ヒトには人間の内部に原因を帰属する癖があり、それが実態とかけ離れていようといまいと、ある人と同席する状況がだいたい固定されている以上は下された予測が実際を大きく外すことはあまり無いので、修正が迫られることはほとんどない。

問題は一人称なんだ。
どうして私達の頭っていうのは、自分に対してだけは他人と同じようにしてくれないのだろう。

自分の行動の記録を取ると、そのあまりに怠惰なことに絶望することがある。あるいは逆に、あまりに勤勉で真人間なことに当惑することもある。
人間は、一人称的の視点から性格を把握するとき、何か強烈な、実際の行動パターンとは全く関係のない何かを用いてアイデンティティを形成する。
一人称的な性格と、他人から把握される二人称・三人称的性格に齟齬がない場合は、別に良い。
ここに大きな齟齬を抱えてしまうと、一生生きづらさを感じながら生きることになる。
私が私の性格について考えるとき、材料になるのは、私の実際の行動パターンではない。
他人が私の性格について考えるとき、材料になるのは、私の実際の行動パターンだけだ。
この溝は、埋まらない。埋められない。
「誰も私のことを理解してくれない……」という孤独感は、ここからやってくる。
他人はあなたの行動パターンを見ている。あなた「だけ」があなたの行動パターンを見ていない。というか、見れない。行動パターンから性格を形成することが出来ない。自分についてだけは、何故か。

あなたの行動パターンは変化することがない。学校が変わったり、職場が変わったりすれば、そういうこともあるかもしれないが、あなたの内部にある性格も、あなたの行動を縛る環境要因も、基本的に変わることはないので、他人からは常に同じ性格を認知され続けることになる。
これに対して、あなたの自己認識もまた変化することがない。理由は分からないが、なぜだか分からないが、自分が自分についてどう思っているかは、本当に変わらないのだ。自分の行動を何度振り返ってみても、それと自己像がどんなにかけ離れていたとしても、私は自分が自分に抱く像を本物の自分であると認知する。認知せざるを得ない。たとえそれが世界のどこにも表出しない場合でさえ。

兎にも角にも私は生き辛い。

現代版コペルニクスの書簡

眠剤を変えたからだ。効きが半端じゃない。
自分のことなのに楽しんでいる。私は麻薬に手を出しちゃいけない人種なんだろうな。

これ、コペルニクスの話だったっけ。

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コペルニクスが教会の弾圧を逃れるために送った一通の書簡。

「……最近教会様がかねがねご指摘されておりますように、我々の研究成果の示すところと聖書に書かれていることの間に大いなる相違[地動説と天動説]があることについては存じているのですが、翻って聖書というものの特性を考えてみれば、これは天使や妖精が神の言語を人間の言葉に翻訳したものでありますため、本来の神の世界観よりは幾度の劣化を重ねており、かつ難解であります。一方自然というものは残酷なまでに単純であり、その結果について解釈に齟齬の発生する余地を全く許さない類のものであります。つまり私達はこういう提案をしたいと思っております。神がお創りになられたこの世界の真の姿について、学者は学者で研究をし、司祭様は司祭様で研究をされる。その結果の間に当然差異は見られるでしょうが、それは神の世界の写し鏡として自然を使ったか聖書を使ったかという違いに過ぎず、いわばうわべだけのものであります。我々は等しく神を研究しているのです!」

頭のいいやつというのはなんて物凄い言い訳を考えつくのであろうかと思うと高校生の時の私は身震いもする思いだった。

ところでここにピンカーという学者がいる。
彼はある本の中で、人間の持つ大体の特性が自然淘汰によって決定されることを述べた。
喜びが自然淘汰なら、愛が自然淘汰なら、家族が自然淘汰なら、共同体が自然淘汰なら──道徳が自然淘汰なら、倫理が自然淘汰なら、我々は一体何を規範とすれば良い?進化心理学というのは反体制的な研究ではないのか?
これに対してピンカーはだいたいこう述べるのである。

「いえいえ、そんなことはありません。確かに道徳や倫理が自然淘汰の産物として私達の脳に、いわば物的な器官として備わっていることは明白ではありますが、だからといってこれは道徳や倫理が真に実在しないことを全く意味しないのです。考えても見てください、我々は自然淘汰によって鋭い数学的直観や科学的直観を有しています。そしてこの直観が、恐らくかなりの部分において、宇宙の姿を正しく捉えているということに異論を唱える人は恐らく居ないでしょう。確かに量子力学における人間の脳を越えた領域や、4択カード問題から示唆される領域固有性や、トロッコ問題とその応用が示唆するように、科学・数学・倫理の能力にはどれも生物学的・進化論的必然としてのバグや限界が見受けられるようですが、しかし、私達の能力の大部分は、"実際に"宇宙の現実をそっくり反映しているのです。そうでなければ、一体どうやって私達はここまで生き延び繁栄することが出来たでしょうか?数学や科学の直観が、不完全ながらも確実に宇宙の一側面を捉えているのであれば、倫理の直観もまた、偉大なる宇宙の法則の何かしらの側面を反映している可能性が当然大いにあるのです。我々が善と悪を感じるのであれば、数や科学法則と同じように、その直観をもって宇宙にも善と悪が確かに存在していると考えてはならない理由が何かあるでしょうか?自然淘汰によって倫理が遺伝子に埋め込まれたというのは決して体制を崩壊させるような主張ではなく、むしろ強化するアイデアなのです」

この頭の良さには本当に驚嘆するしか無い。20世紀最大の言語学者はもうすぐ死に、きっと21世紀最大の言語・心理学者になる学者、スティーブン・ピンカー。
彼の「言い訳」の練度は、常軌を逸している。
こんなことを言われたらどんな倫理団体だろうと何の妨害も出来んではないか。完璧だ、あまりに完璧だ。

しかし私はこれが果たしてピンカー本人が本当に思って書いたことばなのか、少しその判断に間を起きたいと思うのである。
ピンカーは情熱的だ。野心家でもある。別の章では、世界平和をもたらす現実的な方法を、聴衆を惹きつける彼流の雄弁さを以て熱く議論してくれた。
しかしピンカーは楽天家ではない、決して。少なくとも私はそう思っている。
倫理が自然淘汰によって生み出された何の根拠もない「ニセモノ」なのか、それとも数学的直観のような「本物」なのか、ピンカーは果たして「本当は」どっちだと思っているのだろう。
例のくだりは、様々な団体の批判を避ける都合で書いたのだろうか、それとも、本当にそう思っているんだろうか?
奇しくもこの本の半分程度は、ウィルソンの『社会生物学』が、その科学史上に残る重大な業績と社会に対する肯定的な影響の示唆に反して、愚かな学生や学者に内容を曲解され、彼の研究人生がいかに理不尽に妨害を受けてきたかという話に割かれている。
だから私はピンカーが倫理について語ったくだりが、本心からなのか、単にウィルソンのようになりたくなかっただけなのか、それが分からず全く信用出来ない。
謎は尽きない。

私三遷ス。

2014年09月16日。

今日という日は、多分記しておくべきだ。

何かがあったわけじゃない。何もなかったのだ。

ただ普通の人間の生活が目の前にあり、それは私には唯耐え難いものだった。

以下、生活の記録を。
何がおかしいのかはどなたも気づかれないかと思う。
自分で見ても数カ月後にはどんなに深刻な事態だったか分からないのではないだろうか。

朝。酷い夢を見て目が覚める。夢の影響で半ば錯乱した状態になる。今だから分かるがその後6時間程はとてもじゃないが正気の状態ではなかった。
朝食を摂って出発。睡眠を摂れたので体は重くない。しかし何か凄く嫌な感じがする。具体的な感覚があるわけじゃない。ただ予感がしていた。数日前に「うつの周期に入った」と自分がつぶやいてたのを電車の中で思い出す。
2限。今期初めての授業に出席する。嫌な教室だ。極度の対人恐怖症により座る場所に相当気を遣う。こればっかりは治らない。困らない席を見つけて腰を下ろす。まだ体調は悪くなかった。
授業中。先生の自己紹介すら頭に入らない。5分に1回くらい先生が何を言っているのか分からなくなる。言語機能や集中力が著しく低下する。体にも力が入らず姿勢を保つことがままならない。ボールペンを持つ手に力が入らず、線がまっすぐ引けない。字がかけない。かろうじて名前とコメントだけ書いて出席票を提出する。内容も内容なので精神科に通ってることなど書いてしまったが相当気が参っていたのだと思う。誰かに助けて欲しかった。
授業後。図書館に行って本を返す。読みきれなかった本を申し訳程度に読み始める。まあこんなものでいいか、こんなもので。読書に関わるあるライフハックを実践し始めたばかり。それなりに上手く行っている気はする。上々で本を返す。しかし体調は悪化の一途を辿っており、背を起こして座ることが出来ないので机に突っ伏すしか無く、眼鏡の度の関係で本が近いと目が耐えられないのでわざわざ裸眼で字をなぞるという有り様。
帰宅の自転車。坂道に入った瞬間異変に気付く。ペダルが、まともに、漕げない。横転こそしないけど、恐ろしく、ゆっくりで。結局普段の10倍くらいの時間をかけて坂を登る羽目になった。行きの道はこんなことなかったのに。
帰って、確かDiablo3でもやっていた。
バイトに出かける。今日はいっぱいあるので鬱だ。4時間半。特に書くことは無いが、その分辛い。私じゃないものが私の口を借りて喋っている。それが4時間半も延々と続く。

朝は酷い夢を見て気が変になり、昼にうつで気が変になり、家に帰ってゲームで心を空にして、バイト用に心をねじ曲げられ、そんなおぞましい状態が4時間半も続き、帰って家族と世間話をし、また私でない何かが現れ、ようやく帰ってきて私は私になった。

自分が無くなっている気がする。

疲れているんだろうか。体の疲れではない。心がおかしい。何かが無くなっている。自分が無くなっている。
人格の切り替えを一日に何回もやると元に戻れなくなる。どこでもない、宙ぶらりんな状態で、心が、止まる。
気が変な時の私でも、授業を受けている時の私でも、本を呼んでいる時の私でも、うつの時の私でも、ゲームをしている時の私でも、バイトをしている時の私でも、家族と話している時の私でも、ついったーをしている時の私でもなくなる。

私が、何もない。

社会人の人は、みんな同じことを、どこかで味わったはずだと思う。
みんな、同じように、適応して、生きている。

私は世間様に頭が上がらない。

うわ言

3:53
ねむれない、な。
だが携帯を弄るのはよくないと思った。
そこでこういう新しいタイプの日記を書いてみることにした。
つまり、眠れない度に起き上がり、時刻を記入し、思ったことを継ぎ足していく、というタイプのもの。
朝になったら一括で送信する。

実はこれはtwitterでやろうかと思っていた。「おやすいなさいアカウント」という感じで。布団の中から、眠れない時に、起動するもの。
でもやっぱり携帯はいじくりたくなくって、うなされるのならキーボードの方が適しているから、それならブログでいいか、という感じになった。

翌3:36
昨日は結局送信しないで眠ってしまった。いいことだ。
どうして私は夜眠れないだろう。ゲームが楽しいから?youtubeが楽しいから?twitterが楽しいから?そんなことない。
私が眠れない時、くだらないことに貴重な時間を費やしている時、私はいつも泣きそうになっている。焦りで死にそうにもなっている。
寝たい。こんなことをしていても楽しくもなんともない。楽しくない。やめたい。すぐに寝たい。やめられない。何かが、何かが満たされていなくて、それで眠れない。どうしてかは分からないが眠ることが全く出来ない。
朝、なんで早く寝なかったのかと思う。毎日思う。何故10時に寝なかったのかと、そう思う。夜になると、あの焦りがやってくる。何かが満たされていない、それでも何をしても満たされない、眠ることを許さない、そんな。
結局3時半くらいまで精神を消耗させてようやく布団に潜れる。
そしてそこからまた眠るのに1時間くらいが必要になる。

10時を超えるとだめなのならいっそ8時に寝てみるか。夜か。夜の言いようの無い不安に弱いのだな私は。そう思った。しかしこういう不安を取り除ける薬というのは出来ないものなのだろうか。完成したら、なんだろう、どことなくディストピアに近づいていく気がするな。

希望という名の負債

仕事の出来る人って、そうね、100人に1人くらい、としてみようかな。
それでここに10000人の人間がいて、出来る人を100人選んでください、って言われたら、何も困りはしないのだけどね。
ここに5000人しか人間がいないのに、出来る人を100人選んでください、なんて言われたら、ろくな結果にはならないでしょうけど。

「2020年までに女性管理職の目標30%」。

じゃあ、これ、どうなると思う?

「女性から管理職を選ばなきゃいけない」という時点で、優秀な人間の半分が消えるんです。だって人間の半分は男性なんだから。それに、上場企業の就労者で管理職になれるような年齢の人って、まだ男性の方が割合として高い世代なんじゃないでしょうか。そうすると優秀な人の絶対数が比例してますます減りますよね。ちょっと数字が無いんだけど。

分不相応に管理職につけられる人間が大量発生します。
2020年から数年も経たないうちに、「女性を無理やり管理職につけたせいで仕事が回らなくなった」なんて会社や部署が大勢出てきますよ。

さて問題です。このツケを払うのって一体誰だと思う?企業?馬鹿な政策を実行した政府?それに乗ったマスコミ?ううん、違う、違うよ。

答えは簡単。

我々です。我々若い世代です。

我々の世代の、しかも優秀な女性です。本来何の支援もなくても管理職に就けるような優秀な女性ほどこの改革の後で割を食います。

「女性を管理職につけたせいで仕事が回らなくなった」という苦い苦い教訓のため、2020年から後は女性が新しく管理職に就くことが急激に難しくなるでしょう。
もし仮に「30%の管理職」を全て優秀な女性で埋め尽くせたとしても、まだ深刻な問題が残っています。恐らく大半の企業はこう考えるはずです。「30%も管理職に就けたのだから、"もう"しばらくは女性を管理職に就けなくても良い」と。女性優遇政策下で割を食ってきた優秀な男性社員に報いてやろうとする動きが必ず起こります。

状況を整理すると、我々の世代の優秀な女性が将来置かれる地位はこうなります。
「たまたま2020年に40歳でかつ女性だった」というだけで管理職に選ばれた無能が安穏と禄を食んでる下で出世の望みもなく汗水垂らして延々働き続けなければならないということです。

勿論実際に優秀な女性の管理職の方もたくさん出てくるはずですが、ほとんどの職場ではこうなります。だって優秀な人間なんて本来限られてるんですから、いやでも無能を管理職につけていくしかありません。

私はどんなに頑張ってもきっと出世出来ないでしょう。だってこんな状況なんですもの。受け入れるほか無いのでしょうけど。
あんまりこういう事を言う方っていらっしゃいませんね。まあ言ったら各方面からボコボコにされますものね。呑気にニュースを見て喜んでいてはいけません。損をするのは我々なのですよ。
それとも、別に誰も口を噤んで言わないのではなく、単に私の考えが間違っているということでしょうか。それならそれで良いことですが、残念なことにそんな感じもしないものです。
プロフィール

Author:ルーミア厨
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