魂に醜い皮が張り付く。

ここ数ヶ月、精神が崩壊しかかっている。

この二十年間。私の精神の部屋には。私しか居なかった。美しくも可愛らしい私の鏡像が。ただ凛と在るだけだった。それは好きなアイコンであったり。居もしない理想の少女であったり。綺麗だった。
現実の世界で何が起ころうと。私の心は揺れることも無く。どんなに醜い人間であろうと。何もかもが遮断されるから。私の心は。水面のように。澄んでいたんだ。少女だった。

それが、それが。

私の世界が穢れている。存在が消えかかっている。現実の皮が張り付いてきて、それはべっとりと、剥がれない。
私がどんな人間であるのか。現実で何が起こったのか。そんな事に関係なく、私の精神は常に少女であったはずなのに、私の、自己の像が、醜く壊れ始めている。

私は頭がおかしいのだと思う。世界が正しく見えないのだ。現実があまりにも苦痛なので、強烈にフィルターで歪めることで、この二十年間、ずっとそうやって。だから、私の心は。世界で最も美しい少女で。それだけで、精神を構築してきて。

不純物だ。まがい物だ。ゴミが混入してきている。現実というゴミが。逃げられない世界というゴミが。こんなものがここにあってはいけない。このガラスで透き通った部屋にあってはいけない。どうか私をひとりにしてくれ。永遠にここに置いていてくれ。現実がこんなにも苦しいのなら私はこんなものは要らない。一生このまま少女でいたい。ここは、現実があったらいけないんだ。自分の像が、あったら、いけないんだ。記憶の中から、一切、排除しないといけない。そしてそれは、私にとって、私にとってだけ、二十年かけて世界の見え方を歪めた私だから、できる事なんだ、普通の人には、質の悪い空想にしか聞こえないのかもしれないが、事実それは可能なんだ、可能だったんだ。
認知というフィルター。都合のいいものしか見えない世界。だから、ここには、私しか、いないはずなのに。世界で一番かわいい少女しか。だから、だから、だから、だから、だから、だから、だから、だから、、、、、、、、

愛され続けてn年目。

本当は「愛され続けて5年目。」ってタイトルにしたかったけど、5はゴロが悪い。

記事数が600を超えた記念記事。
4年と3ヶ月だから、だいたい1500日くらい。数字が正しければ、2.5日に1回はブログ書いてることになるのかな。途中まで書いて公開しなかったものも記事番号には含まれているから、過剰にカウントされているのかも。
そもそもこのブログを開設した目的というのは、ええと、たしか狂気が作りたかったのですね。かわいい女の子の抽出物をひとところに集めたような、少女性の狂気の精髄が。だからしばらくはメンヘラをこじらせたことしか書いてませんでした。
しばらくはメンヘラ7:長いの3くらいで続いてたんですが、大学に入ってからは長いの8:メンヘラ2くらいになりました。精神科に通ってそーゆーお薬を飲み始めたから精神が病まなくなったんでしょうね。あと、思春期終わって脳の調子が物理的に落ち着いたのも原因かな。年を食うってのは辛いね。
文章書く専門的な勉強も訓練も特にしてないのに続ける意味あるんだろうか、、、って度々思ったりもしたけど、今になってみるとやめないでよかったかなってちょっぴり思う。継続は力なり。
そんなわけで、これからもよろしくお願いいたします。もしも見てくれてる人がいたらだけどね……!

人種差別の当事者意識。

従軍慰安婦の問題もいよいよ大詰めになってきて。国内はこの路線をかつてないほど強力に支持してる。政府だけじゃなく、世論の圧倒的な、後押しが、ある。

実は海外からは、これは日本が極度に右傾化していると危機的な論調で報じられているのだけれど、私達にはそういう意識がない。
私達はこの流れを全部当然のことだと思っている。何故か?

私が子供の時だった。
私は幼い頃より、というか同時代の小学生はみんなそうなのだが、あの国に謝罪をしなさいと学校で言われて育った。
あの国が私たちのことを悪く言っている?仕方ありません。あなたのおじいちゃんとおばあちゃんがそれだけのことをしたんだから。何の関係もないあなたが謝らなければならないのも仕方ありません。謝りなさい、謝りなさい、相手が不快だと言っているのだから、これは全部貴方が悪いんです。そういう教育を延々食らった。
私の学校はそこまで過激ではなかったにしても、時を経るにつれ、あの国に対する申し訳無さと、謝罪への無限責任から解放して欲しいという切望が、私の心にボディーブローのような痛みを残していたのは事実なのである。

そんな中学生の時だった。インターネットで、そういうものを見てしまったのは。
慰安婦を連行したのなんて嘘だった。どっかの島の問題は完全にあちらのいちゃもんだ。この国にいるあの国の人は月に17万円ももらって暮らしている。あの国は併合前と後では文明水準として後の方が圧倒的に高かった。などなどなどなど。
今となってこそ、そういう文脈で挙げられている事実は捏造じみたものが混じってるとか、控えめに言っても誇張があるとか、仮に事実だとしてもそれが必ずしもよいことではないのだとか、そういう事も分かるのだけれど。
当時の私は、「ああ、じゃあ、私はもう、謝らなくていいんだ!!!」って、重荷から解き放たれた気がしました。
そして、その感情が、「今まで、よくも騙してくれやがったな、畜生!!!」に変わるのに、時間はかかりませんでした。

それからしばらく私はあの国の人達が嫌いでした。今ではそんなことありません。
私の愛するネクソン社は他ならぬあの国の企業です。その事実を認めるのに、私は大変な心の苦痛を払いました。
私はアラド戦記というゲームの世界設定が大好きだったのです。あの国の人達に、こんなものが作れるということが、私には現実として全く受け入れられなかったのです。
それでも、何年もかけて、私はあの国の人たちのことを、なんとも思わなくなりました。

しかしそれは私が幸運だったからで、ほとんどの人については、「畜生!!!」の部分で止まるのです。これまで自分は騙されていた。騙されていたせいで大変な精神的負担を被った。そしてあいつらは厚顔無恥にもまだ我々を騙し続けようとしている。そんなことあってなるものか。その国民の意識が一気に顕在化し、政府を突き動かした第一号の事件が「従軍慰安婦の例の新聞の例の証言の撤回」です。

だから、私達はこれを当然のことだと思っている。

日本にいる人ならだれでも、あのような虚偽の証言や、この問題自体、あるいは第二次世界大戦から下る我々への謝罪の義務が、どれほどの重荷であるかを知っている。そして、現代まで伝わっていることの一部は実は完全な虚偽であることを知っている。だから、それを撤回し、不当な重荷から解放されるのは、至極当然のことなのだ。

あの国の人達に非常に過激な発現を行う人達、あれは本人たちは当然のことだと思ってるわけです。だって自分は騙されてたんだから。それだけの苦痛を不当に背負わされたのだから。
じゃあそういう人が発生するのって本人が悪いんじゃなくて教育が悪かったんじゃないかって思うんですけどね。
あの国に謝らせようとしたら、あの国が袈裟より憎い人達を大量生産してしまったという。

でも外人にはそんな長い長い事情なんてわかりっこないんだよねえ。

IQだけで人生が決まる国へ。

止まらない、冷ややかな笑い。
こういう事を言う人が誰も居ないんだよね。

多分誰でも聞いたことがある、PISAの学力調査。それが掲げる「PISA型読解力」という概念が、2003年以降の教育会で散々もてはやされてきました。教職関連の講義には必ずと言って良いほどどこかで出てくるものです。
じゃあPISA型読解力とはどういうものかと言いますと、詳細は各自ググって欲しいのですが、簡単に言って、知識の多寡を問うのではなく、持っている知識を使えるかどうかを測る指標だということです。
様々な先生のお話を聞いていると、これからの日本の"公"教育の方向性として、従来の知識の詰め込みではなく、どうもPISA型読解力のような力、持っている知識を使えるかどうかに重点を置きたいようです。

これがかなりやべえなぁと思っている。

知識を詰め込まれるだけなら誰でも出来るんです。覚えの遅い早いはありますが、原理的には時間さえかければ誰だって出来ます。学校で落ちこぼれる原因なんて量が足りないか授業中話を聞いていないか学校の進度が不当に早いかのどれかしかない。
それに対して、持っている知識を使うことは訓練しても誰でも出来るようになる事ではないんです。こういう能力はかなりの程度、いわゆる知能検査で測られるような、生得的な能力に依存するところがあります。発達心理学的にどの段階に居るのかにも大きく影響を食らうでしょう。どっち道、努力でどうにも出来ない要因がかなり噛んでくるということです。出来る子は何も教えなくてもスイスイ出来てしまうが出来ない子はどんなに訓練されてもどんなに努力を重ねても全く出来ない、という状況が強く予測されます。
知識の詰め込みでなく知識の使用で教育を測るということは、本人の努力の多寡とは無関係にIQで成績を決めると言っているのと大して変わりません。

とはいえ、知識の詰め込みにしても生まれつきの向き不向きはありますし、例えば生まれつき真面目であるとか、人の話をきちんと聞くだとか、ものを覚えるのが早いだとか、そういうことは十分ありますから、どっちにしたって同じくらい生まれつきの素質で判定しているではないか、と思われるかもしれません。同じくらいかどうかは分かりませんが、それはまあ、十分有り得ます。
百歩譲ってそれが正しいとしても、尚知識の使用を教育の基板に据えるのが尚マズイのは、その指導法が全く確立していないし、今後も確立出来そうにないという点にあります。
「知識を詰め込むための教科書」なんて簡単に書けますが、「知識を使えるようにするための教科書」なんて誰にも書けないんですよ。そんなものが書けたら誰も苦労はしない。
どうやったら知識が有機的に使えるようになるのかなんて誰にも分からない。生まれつきそれが出来る子でなく、生まれつきには出来ない子を、教育で、後天的な要因で、どうやったら自分で頭を使えるように出来るのかなんて、多分今後百年は分からない。少なくとも今は分かっていないし、分かる見通しは立っていない。

良い例なのが、フィンランド。

フィンランドっていう国はこの10年ほど、すげえぶっちゃけた話、PISAのテストで良い点を取るためだけっていう無茶苦茶世俗的な欲望のために教育体制を変え続けてきた。そしてそれは実際に上手く行っていた。フィンランドは国としては正直言って大したこと無いのに、PISAのテストの成績が国を挙げてダントツに高いというだけで世界中から喝采を浴びた。やれフィンランドは凄い、我が国も見習うべきだ、そう言って日本の教育学者達もひたすらフィンランドを研究してきた。

知識を使えるようにするという目的に、気の触れた情熱を教師達が注ぐ。私が実際に見た、社会科の事例。南米諸国間の貧富の差が何に起因するのかというのを生徒たちはノーヒントで調べさせられる。闇雲ながらも情報が集まり、また先生も適切にヒントを出し、どうも輸出入の品目と関係があるらしいという事が次第に分かっていく(でも相関と因果の違いみたいなことはやらないんだね、仕方ないだろうけど)。で、それぞれの班に分かれて国ごとに情報をパソコンで調べて発表して、ここまでに20時間かける。20時間だよ20時間。
こういう事を延々とやって、知識の積み重ねをぶん投げて、代わりに「自分で知識を探し、使う」という事に重点を置いてきたんだ、あの国は。

そんなフィンランドが最新のPISAテスト、2012年版で出した成績があのザマ。
かつてのPISA一流国が凋落し、代わりに数学的応用力の項目でトップに踊り出たのは、上海、シンガポール、香港、台湾、韓国、マカオ、そして日本。フィンランドは12位と遙か下。読解力でも日本4位に対してフィンランド6位、科学的応用力でも日本4位に対してフィンランド5位。どの項目も上位にいるのはアジアばっかり。
「フィンランドが凋落したのではなく、アジアが伸びた」なんて弁明もあるけど、果たしてそれもどうだか。

さてさて、どうなるんでしょうかね、PISAのテストで良い点を取るため、そんなくだらない理由で編成された「応用中心」の教育を受けてきたフィンランドの国民の皆様は。彼らは詰め込み教育を受けることが出来なかった。他の先進諸国の平均的な知的水準に比べて、持っている知識の絶対量があまりに乏しい。上の社会科の授業を受けた生徒さんたちなんて、「国の豊かさと輸出入品目の間には相関関係があります」という10分もあれば説明出来そうな事を知るのに20時間もかけられてしまった。実に120倍の知識差。
まあ、ちょっと極端な例を引き合いに出していることは否定しないけど。でもこういうの全教科でやってたんだよ。マジで。
これで「応用力」とやらが身につくならまだしも、実際には詰め込み教育と比較しても大して身についていなかったわけで。この世代の人達ってきっと、5年後10年後に「知識も無いし応用力も無いPISA型読解力世代(笑)」みたいな感じで上からも下からも馬鹿にされるんですよ。日本のゆとり世代とおんなじようにね。

あそこまでやったフィンランドが最終的に安定した成果を出せなかったのだから他の国がどんなに頑張ったところで結果なんて出るわけがない。二の轍を踏むだけ。失敗した世代は上からも下からも蔑まれる。それを主導した大人は何の責任も取らない。

さてさて、フィンランドが凋落した間にアジアのやってた事ってなんでしたっけね。日本がやってた教育ってなんでしたっけね。PISA型読解力?違う。応用力?違う。「脱ゆとり」の古典的詰め込み教育への回帰だよね。それでPISA型読解力の成績が上がった。じゃあそれ、単に詰め込みやれば応用力も伸びるってことなんじゃないですかね。
というかそもそもね、OECDがPISAテストなんてやる前から、そういう能力を持っていた人達っていたわけですよね。そういう人達ってどうやって出来るようになったんでしょうね。生まれつき出来るような人も当然いたでしょうけどね、勉強しながら頭良くなってった人って絶対いるはずですよ。
例えば数学を勉強しますよね。基本問題解くじゃないですか。これは出来るわけですよ。それでちょっと章末の応用問題を解いてみる。解けない。うーんうーんって唸る。仕方なく解答を見る。「ああ、そうか!」と思う。しかしその解答には、「自分の知っていること」しか書かれていない。知識が足りなかったのではなく、知識の使い方が分からなかったということを知る。そして手持ちの知識が一つ使える形に仕上がっていく。こういう作業を果てしなく繰り返していけば、数学という教科を離れたところでもけっこー手持ちの知識が使えるようになってるんじゃないですか。多分ね。
で、これってぶっちゃけ英語でも物理でも化学でも(個人的な話をすれば、社会系の科目も)おんなじなわけで、教科って知識を使う訓練を必然的にしなければならないように出来てるんですよね。
じゃあ、別に詰め込み教育でよかったんじゃないの、って思うんですけどね。詰め込み教育って、知識もつくし応用力もつくっていう二重においしいつくりになってたのに、教育学者の人達は何が不満だったんだろう。非人道的だとでも思ったのかな。
上で、「知識を詰め込む教科書は簡単に書けるけど知識を使えるようになる教科書なんて書けない」なんて言ったけどあれ半分嘘で、ぶっちゃけ何の教科の教科書取ってきても、それが詰め込み式である限り、知識を使えるようになる教科書になってるんです。100%。

更に詰め込み教育の何が良いって、やりさえすれば誰でも多分出来るようになるところなんですよね。基本問題だけ解いて応用問題の前で呆然と立ち尽くして延々と悩むのなんて誰でも出来ますし。
まあしかし、応用問題を何百問何千問解いても、一向に所見の問題が解けるようにならない、そういう人はいるかもしれませんね。いるかもしれませんけど、とりあえず見たことの有る何千問かは解けるようになってるだけマシなんじゃないですかね。どこぞの国のように、応用力も無ければ知識もないような若者を大量発生させるよりは。
応用力って、ほんとにもう、半分以上賭けとか祈りみたいなところがあって、どんなにこっち側が上手くやろうとしても出来る人と出来ない人っていうのが出てくるんですよ。ぶっちゃけどうしても本人の生まれつきの資質に頼らざるを得ない。そんなランダム性の高いものをターゲットにしちゃいけない。生まれつきでその人の人生を決めたらいけない。公教育として必要なのは、どんな馬鹿な相手にでも社会に出る上で必要な知識を確実に押し付けること。そのついでに応用力がたまたまついたらラッキーだよね。そんな感じでいいと思うんですけどね。まあフィンランドよろしく日本のみなさんも教育学者ってのは名誉欲がお強いですからね。どうでもいいランキングの順位に目が眩みますものね。そんで散々持ち上げてたフィンランドが凋落したと思ったらその事を反省する奴は誰もいないですからね。その内アジア・メソッドとか言い始めるんじゃないですか。そういう後先考えない連中が20年前だかにゆとり教育とかいうのを適当に考えたんだろうね。それで我々がゆとり世代とか散々馬鹿にされてるのは仕方のないことだよね。何しろ教育の専門家様達が知恵を絞ったというのに残念ながら失敗してしまったわけだからね。

ついったーの無い人生。

「彼女」と綴ったのは当然意識してのことで。

言葉が溢れてくる。涙に似た感情だって、溢れてくる。
偽悪ぶって終わり、なんて、出来っ子、ない。だって、私は、悪い意味で正直だから。
感情に、嘘なんて、つけるわけ、ない。
私は、涙腺がぶっ壊れていて、涙なんて出ないけど、そんな、人間の出来損ないだって、なけなしの感情、くらい。

こうやって、何を書けばいいのか戸惑っている私を見たら、きっと彼女はくすくすと口元を隠して笑ったのだろう。

ところでもう私にはついったーが無い。数日前に携帯からJanetterを消去したからだ。
みんなは何を考えているの。みんなは何をしているの。みんなは私を見ているの?見ていないのなら、見てほしい。そんな欲望だって発散できなくなる。
言葉が、悲しみが、とめどなく、あふれる。
感情が、共有されない。本当に、私だけの、ものに、なる。

良いことなわけがない。恐ろしく辛い。
みんなと、繋がっていない。みんなと、切り離されてる。みんながどこかへいっちゃう気がする。手の届かないどこかへ。それは死かもしれないし、ついったーをやめる、そんなことかもしれない、私がこうやってキーボードを叩いている間にも誰かがいなくなったり私をリムーブしたりする気がする、耐えられない。

でも耐えるべきだ。耐えるべきなんだ。

迷っている。

私の人生は、前半はかなり豊かで幸福なものだった。この上なく幸せな人生だったと思う。私より幸せな人生を送れた人間なんて、いない。そう断言したっていい。それくらい皆さんは素晴らしかった。この前亡くなった君だって。
だけど、これからの人生の後半は、みんな、死んでいってしまうから。

こうやってついったーから離れるべきなのだろうか。臓腑を抉るような苦しみに耐えて、この世から私が存在しなくなる苦痛に耐えて、いってみれば生前葬、生きながらにして死んでいる、誰にも繋がっていないし誰にも心を開けない、そんな状態になってまで、生き長らえるべきですか、私は。

わかった。わかったよ。私は死ぬよ。私は皆さんと心中する。死んでいく皆さんを最後まで看取ってやる。誰一人として忘れないでやる。それでみんながいなくなった時に、誰も私を覚えていなくなった時に、私が世界でひとりきりになった時、私もみんなと一緒に、しぬんだ。

残りの人生、私の仕事はそれだけだ。



何年後か。
人生に絶望して、この日記を探し当てた私へ。
この日記は、「愛してるよ」と毎晩リプライをしていた相手が死んだ時に書かれたものだ。
この日記を探すまでに、他に何個の死亡記録を引っ張る羽目になったのか。それともここはまだお目当てじゃないのか。
何のためにそんな事してるのかもわからないけど、仕事が済んだのかな。後を追うということか。これから餓死の準備をするつもりですか。
何のためにファフナーを見たの。お前はまだどこにも居ない。どこにも居ないからそんなことしようと思えるんだ。
2014年、大学3年の夏に死のうとしたあの時、いや死のうとしてすらいない、ただ「死にたい」と口にしただけで、家族はどれだけ悲しんだんだ。一晩中お前のそばにして肩を抱きしめてくれたじゃないか。こんな最低の人間なのに。家族は、家族ってやつは。

私はもう、死ねないよって、あの時、思ったはずだった、ろ。なんで、死ぬ準備なんかしてるんだよ。

 ── でも簡単にどこかに居られるようなら、誰も自殺なんかに手を出したりしないんですよ。
     恐ろしい偶然に恵まれない限り、経験もしないで一生を終える類のものでしょう、あれは。
     難易度としては、下手をすればセックスなんかよりもずっと難しいだろうね。本当に。
     報酬は、生涯約束された自殺しない権利。でもそんなものは、誰にも手に入らない。 未来より ──
プロフィール

ルーミア厨

Author:ルーミア厨
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