承認乞食の処方箋

承認欲求。
思春期の人間に巣食う、時として人生の進路を大きく狂わせるような症状を持つ、悪魔の病。
不幸にも罹った人達は口を揃えて嘆く。

「治らない」

そんな愛しい人達への、私が4年かけて開発した、ささやかな処方箋。
あるいはこれは処方箋ですらなく、軽い説教に近いものかもしれないが。
誰かが楽になることが、例え1%でもあればと思ってこれを書く。

これだけは始めにキッパリと断っておく。

「君」が誰かから愛されることは、君が死ぬまで一生有り得ない。

諦めてください。

たしか『パンセ』とかいうタイトルの、散り散りになって見つかった大昔の哲学者の遺稿に似たようなことが書いてあったと思う。
もし美人である彼女が愛されているのならば、それは彼女が愛されているわけでは決して無い。彼女が顔に火傷を負い目を覆うような不細工になれば、二度と誰も彼女に振り向くことはないからだ。
もしバイト先であなたがちやほやされているのなら、それはあなたがちやほやされているのではない。「シフトを減らして下さい」なんて一度でも上申した瞬間に血相を変えてあなたのことを怒鳴りつけるか、今までのような待遇は二度と得られなくなるだろう。
もし知り合いがあなたの周りにいるのなら、それはあなたを求めてではない。彼らは鋭敏に「一人でいるのが恥ずかしくて仕方ない空きコマに一緒にしてくれる相手」だけを求めているのであり、他の人間で都合がつけばあなたは値踏みされる。

少し大学生風に変えてしまったけど、そういうこと。

ごめんね。この世界は残酷だよ。私もがんばってはみたけど、だめだった。「私自身」が誰かに愛してもらえることなんて、この世にたった一つもありえない無理ゲーなんだ。

それとも私を題材にした小説を書いたら、みんなは私を愛してくれるかな?違うよ。それで愛してもらえるのは、「面白い小説を適度に更新し続けてくれるあなた」だよ。小説の更新を止めた瞬間に、"あなた"は人の愛を失うのさ。

それじゃあどうすればいい?一体どうすればいい?私は愛されたい。人から好かれたい。囲まれていたい。ちやほやされたい。特別な自分でいたい!
こんなにも醜く救いようのない哀れな魂をせめて癒やそうとするのなら鎮めようとするのなら、一体何をすればよい?

簡単な事さ。やることは二つ。まず諦めること、次に同化することさ。グロデスクでもなんでもない、極めてクリーンな作業だよ。

諦める内容は、もう言ったね。「君自信」が愛されることなんて、宇宙が何回回ったって、無い!まずそれを受け入れることだ!

ではどうすればいい。それでも「私自身」が愛してもらえるには、どうしたらいい?
いやいや、あるじゃないか、非常に簡単で効率的な手段が。
「私自身」が愛してもらえないことは、何度も言ったね。
でもね、私達は、「私自身」は愛してもらえなくても、「私の顔」「私の声」「私の話」「私の雰囲気」「私の知識」「私の創作物」「私のゲームの腕」「私の技術」etc...なら愛してもらえるんだよ。
「私自身」だけは愛されないけれど、私達は実のところ、他人から愛してもらえるものを、手にあまるほどいっぱい持っているんだ。その愛という水が、承認という穴の空いた壺に、一滴も流れ落ちやしないだけで、ね。

ここから先が、「同化すること」だよ。「溶けてなくなる」なんて言って良いのかもしれない。
その手持ちに有り余る他人から愛されうる要素の中で、どれが自分なのかを、愚かにも一つに決めてしまうんだ。
私は、こうやって、文章を書いている時だけが私である。あるいは、本を読んでいる時や、大学で発表を行っている時だけが私である。従って、その間に他人から得られる承認は、底の空いた壺にでなく、私の心という容器をきちんと満たすように際限なく流れこんでくれる真性の液体である。
私は、「勉強をしている時の私」という極めて限定された部分を、「私自身」として同化し、それだけを私にしてしまったんだ。
だから、そういう風にする前の「私」がいったいなんだったのかなんて、全て「熔けてしまって覚えていない」。
こうやって、他人からの承認は、きちんと「私自身」に流れこむようになった。承認されるものと私自身との間に、確かなリンクが形成されたのだ。

承認欲求とは関係無いけど、同時に一つ治ったことがある。人生嫌なことがあっても、「でも私は学業で[秘匿事項]だから」と思えばそれで済むようになった。かなり生きやすくなった。

もし実行できれば、楽になれるのは確かだよ。でもね。

思春期の君に、一つだけ覚えておいて欲しいことがある。
完全な安定状態に入った私の精神は、こんなものを読んでいる君の精神が、正直言って羨ましい。喉から手が出る。可能ならば、奪いたいくらいだ。
知っているだろう。そうやって孤独にぐらぐらと精神と揺らすのは、苦しいけれど同時に、世界で最上の脳内物質で頭をいっぱいにすることを。
私は願わくば、あの頃に帰りたいとまで思っている。
だから、安易に実行しないで、その時が来るまでどうか美しくいて欲しい。
美しいとか美しくないとか言うのは、魂の問題だからね。
私の魂は、もう美しくないんだ。

約束された死

弟と父親の会話が、ドアを越えて漏れ聞こえてくる。

「いーじゃん、明日連れてってよ」
「だってよーお前、めんどくせえよう」
「だって、どうせやることないんでしょっ」

「どうせやることないんでしょ」

ああ。これだ。
私の父親。私の母親。そして、その同世代のすべての人達。

「どうせやることないんでしょ」

その言葉が、私を殺す。

我々は実に幸運だ。宇宙ができてから実に138億年。地球が出来てから45億年。想像を絶する長い時間の間、役90億年もの歳月をかけて宇宙はひたすらに分子の粒を投げ合った。
ある時、90億年の幸運が全て凝縮されたような、水という化合物が豊富に地表を覆い、太陽からちょうど気温が適切になるような位置にあるような惑星が遂に誕生し、しかしその惑星の海の中で行われたのは、更に意味の分からないルールの分子の粒の投げ合いだった。単細胞生物が誕生し。長い長い自然淘汰。それをくぐり抜け、我々は、この宇宙の中で、僅か80年の自由意志を与えられている。

私がやっていることなどは、所詮自然科学の端くれであるから。本場の本場で研究をしている人達は、きっともっと物凄い興奮に満ち足りているのかもしれないが。しかし私には、この私にはこのたったこれだけの手に余る幸福で十分なのだ!
この世ってのはすごい。物凄いシステムで出来てるんだ。世界について知れば知るほど、世界をもっと知りたくなる。面白いんだ。底抜けに面白い。嗚呼、こんな広大なフロンティアを、たったの80年かけてでしか遊んで回れないだなんて!しかも、ほんの少し、猫の額程度の広さの土地の中でしか!

「どうせやることないんでしょ」

あるよ、あるに決まっているよ。勉強をしなさい。世界に触れなさい。こんなにも幸運を。貴方は選ばれたのに!今ここで生きていて意識があるというだけで、既に神から"選ばれて"いるんだ!!それをふいにするものは……。
それはまるで、内容も読まない契約書に平然と判を押すしてしまうような。それはまるで、死に至る病だというのにその事を知らないで放置してしまうような。そんな愚かさ。
我々は、私の場合、あと60年で死ぬ。そこで私の世界は潰える。潰れる。塵になる。この間にどれだけ世界のことが知れるのだろう。

「どうせやることないんでしょ」

私の父は、私の母は!あるいは、世界中で怠惰に己の四十代を過ごす全てのぼんやりした人間達が!
一体、何を考えて生きているのか!私にはさっぱり分からないねっ!!

SS「修学旅行で楽しい思い出作り」

「それではこれから修学旅行の思い出作りを始めます」
「はーい」

そんな呑気な宣言が発令されたここは、別に京都でもなんでもない、普段通りの学校の302教室。
轟音と共に黒板いっぱいの大きさの巨大なスクリーンが天井から降りて来て、私達がバスに乗るまでを映し出す。前から2列目に席がある私にはやや見づらい角度だった。

「それではここで一旦映像を止めまーす」
「はーい」
「後ろの人に回してくださーい」

答案用紙が配られてくる。

----------------------
問1.20XX年8月10日、何時何分に何駅に集合して3年2組の修学旅行はスタートしたか。(完答) 《基本》
問2.バスの会社の名前は何だったか。《基本》
問3.バスの機体番号を答えよ。《発展》
問4.添乗員の名前はなんだったか。《基本》
問5.運転手の名前はなんだったか。《発展》
----------------------

集合時間は簡単だ。7時半、新宿駅。バスの会社は、10年も前から教員にリベートを渡して仕事をもらっていると悪名高い、あの日本観光運輸。機体番号はさすがに覚えていない。添乗員は、あの美人のお姉さんの、行く先行く先で名所の歴史を説明してくれた、あの高木さんだ。運転手さんは影が薄いものでさっぱり忘れてしまった。たったの3問しか正解できないだなんて。

「それでは答案を回収します。同時に正解が流れるのでよく覚えてくださいねー」

後ろから流れてきた紙を前に流しつつ、近すぎて画面のほとんどが見えないスクリーンへのせめてもの抵抗で、椅子をめいっぱい後ろに引き下げた。これならまだ見れなくもない。

『……20XX年8月10日に新宿駅で集合した私達3年2組は、バスに乗って修学旅行をスタートさせました。バスを手配してくれているのは長年お世話になっている日本観光運輸様、機体番号は3384、運転手様のお名前は中河原様、添乗員を担当されたのは皆さんが旅行の間何度もお世話になった、あの高木さんでしたね!
バスに乗った私達は京都目指して出発したのですが、その間いろんな事があったのでし……』
「はい、ここで一旦映像を止めまーす!次の回答用紙でーす」

----------------------
問1.東京を出発して京都に到着するまでにあった一番最初のイベントは何か。 《基本》
問2.この時、みんなのピンチを救ってくれたのは何君だったか。《基本》
問3.高木さんが解説してくれた最初の名所はなんだったか。《発展》
問4.最初に立ち寄ったコンビニを以下の中から選べ。《基本》
①ローソン ②ファミリーマート ③セブンイレブン ④AMPM
----------------------

「さて、」

私達が答案を書いている間に先生が話し始める。

「これまでも散々説明したことですし、いまさら繰り返すことではないとは思いますが、この作業をする意味を、先生ともう一度振り返りましょう」

聞き飽きた。

「人間は何もかもすぐに忘れる。勇気を出して単語帳を覚えてみて、次の日絶望しなかった事がありましたか?勉強に限った話ではありません。今日食べた朝ごはんはなんだった?最後に買ったゲームは何?一体何時間遊んで、何が特に楽しかった?君のフレンド欄にいる○○さんとはどうして知り合ったんだっけ?そんな事も覚えていられないのに、修学旅行にただ漠然と行ったって、忘れるだけで何の思い出づくりにもならないですものね」

ああ、そうですね。

「私達先生はね、生徒であるかけがえのないみんなに、人生で一回きりの楽しい思い出を絶対に作って欲しいの。でも人間はばかだから思い出なんて持っていられなくて、全部すぐに忘れちゃう。だけどね、それが全部じゃない。忘れない記憶だって人間にはあるの。"love"って単語はどういう意味だっけ?9×3はいくつ?「学」って漢字で書けますか?出来ない子はここには一人もいないよね。何がさっきと違うと思う?それはね、量なの。圧倒的な量。何回もきちんとやったことは、人間忘れない」

そう、だから私達は──

「それで先生達は会議の結果、修学旅行の内容を全て記録に取り、何があったかを一言一句忘れないように記憶の再生の反復練習をしてもらうことにしました。それがこのプリントというわけです。2枚目の答案は済みましたか?プリントは全部で150枚、ビデオは通算で5回見る予定です。それでも記憶の頼りないったらありゃしないですよね。これだけやったって君達が2年、3年経ち、いや社会人になり、10年20年経ってもそれでもありありと思い出せるような、そんな楽しい楽しいかけがえのない思い出を3年2組のみんなで作って欲しいって先生は本当に思ってるの!だからね──」

やめてくれ──

「就学旅行に出かけただけで思い出が出来るなんて甘ったれた馬鹿なことは言わないでください。思い出は文字通り『作る』ものです。これが本当の『思い出づくり』です!だから先生達は寝る間も惜しんでこのプリントと動画を用意しました。3年1組の権堂先生は過労で倒れて入院されたそうです。だからみなさんも是非私達の期待に応えて一生の思い出を、……」

その日の学校が終わった帰り道。気力無く歩いていると、今年の思い出が否応なしに目の前に浮かぶ。
校門から出て直進し、T字路に出る。5月12日、私はここで赤いバイクと接触しそうになった。その事を他人に漏らしたのがまずかった。先生に伝わるやいなや、私は職員室で「5月12日に校門から出てすぐのT字路で私は赤いバイクと接触しそうになりました」という「反省文」ならぬ「思い出文」を100回も書かされたのだった。
T字路を右に曲がる。9月12日、私はここで曲がるときに転んで擦り傷を追った。右に曲がるとコンビニが見える。4月17日にチューインガムを、5月1日にダースの白いやつを、8月24日にグレープ味のグミを買った店だ。コンビニを無視して進めば交差点。7月12日午前4時に事故があり、犯人が見つからず、集団登校をする事になり、その時私の隣に居たのは交流のなかった3組のあやねちゃんで、私達はそこで初めて友だちになった。それっきり話したことは無いんだけど。交差点の先に、例の赤いバイクの姿がちらっと見えた。近所の人だったんだろうか。
何百もの「思い出」に押し潰されそうになるのを懸命に堪えて、一歩一歩じりじりと進む。あった、私の家のドアだ。ちなみに私がこのドアの静電気でびっくりしたのが去年の3月12日。そんなことはどうだっていい。疲労困憊しながら私は家のドアを開けた、やっと開放される──

「お帰りなさい、真里ちゃん。今日も学校楽しかった?」

ああ、そうだ、"こいつ"が家にいたんだ。

「うん、楽しかったよ。修学旅行の思い出をみんなで作ってきたの」
「そう……そっか。それだけなのね。じゃあいいわ……なんだか悲しくなってきちゃった。今晩はみんなの分まで、ご飯作れないかもしれないわね」
「……、さっき、交差点で赤いバイクを見たの」
「えっ、ほんとう!?きゃー!やったじゃない!素敵な思い出よ。今日はとっても楽しい一日だったわね!」
「うん、楽しかったよ。だから……」
「こうしちゃいられない!すぐに今日の『思い出づくり』を始めなきゃ!ええと、今日は12月19日で赤いバイクと接触しかけたのは5月12日だから……7ヶ月と7日ぶりよ!なんてラッキーなのかしら!……」

私は青木真里、私立思い出作り中学校の3年2組の生徒です。

誰か、私をこの地獄から解放してください。

ショートショート「精神科の全て」

「『朝起きて髪型を整える時にぐずぐずして30分もかかってしまう症候群』……、ですか」
「はい、『朝起きて髪型を整える時にぐずぐずして30分もかかってしまう症候群』ですね」

訝しげに尋ねるエム氏に、医者が笑って答えた。

「日本人の700人に1人程度が罹る病気ですから、何も心配することはありませんよ」
「はあ、そのう、よく分かりませんが、つまり、私は病気ということですか」
「そのような症例の報告が盛んにされています」
「あのう、病気なんですか」
「『朝起きて髪型を整える時にぐずぐすして30分もかかってしまう症候群』の傾向が強く見られる、ということです」

どこがどうというわけじゃないが、どうも要領を得ない話のし方だな、もやもやした気分を抱えながらエム氏はバイトに出かけた。例によって1時間の遅刻だった。

「今日はどうしたんだ、おまえ」
「すみません、寝坊してしまって……」
「今度やったら、クビだぞ、わかってるのか、おい」
「すみません、すみません……」

今日遅刻したのは実は電車に乗り遅れたからなのだが、エム氏はわざとそれを言わなかった。言うことでも無いと思ったからだ。遅刻して怒鳴られるのには慣れていた。

「なるほど。貴方はですね、『わざと電車に乗り遅れるように荷物の支度をする症候群』なんですよ」
「……、『わざと電車に乗り遅れるように荷物の支度をする症候群』。」
「ええ、つまりですね、誰だってバイトには行きたくない。これは恥じることではない。人間として当然のことです。だからバイトに行かなくてすむような、それでいてクビにならないような落とし所を探すというわけです。それを半々ずつ達成できるのが遅刻、というわけです。いやあ人間の頭というのはよく出来ていますね!フロイトはよくぞ防衛機制を発見したものです」
「あのう、そういうことが聞きたいんじゃないんです」
「はい?」
「治すには、どうすればいいんですか?」

不吉な沈黙が診療室に降り、同時に絶叫が上がった。

「な、なっ、ななななっ、なっ、なっなっなっ、『治』す!!!???『わざと電車に乗り遅れるように荷物の支度をする症候群』を『治』すですって!!!???てててててて!!!!???!?!?!?」

あんなに人の良さそうだった医者がこうも急に態度を変えられるのか、きっと練習の賜物に違いない、そうエム氏は適当に眺めていた。あと私に眠剤が回ってきて色々適当になっているからだ。

「い、いいですか、いいですかエムさん、あなたはご自身の様態について全く理解されてないんですよ。落ち着いて聞いてください、『わざと電車に乗り遅れるように荷物の支度をする症候群』も『朝起きて髪型を整える時にぐずぐすして30分もかかってしまう症候群』も、これは簡単に治るような類の病気では決してありません!!遺伝か環境かなんて古い議論はとうの昔に終わりました、重要なのはまさに『今、ここ』であり、この病気が軽々しくは改善しないという厳然たる事実です!!エムさん!!あなたは目を背けてはいけない!!あなたは何年もかけてこの病気と向き合わなければならないんだ!!それを軽々しくも『治す』、『治す』だなんて!!!!」

エム氏は平然と続けた。

「いや、その、治すのに一般的には時間がかかる、それは理解が出来ます、しかし、なんというかどうも、もうちょっと簡単に治るのでは、もう少しどうにか出来るのでは、と、そういう感じが、してしまうのですが……」

再び医者が診療室をつんざく。

「あなたは本当に何も分かっていないようですね!!『わざと電車に乗り遅れるように荷物の支度をする症候群』は体質なんですよ!体質!あなたが20年生きてきたことの結果!こんなものが、治るわけがない!それなのに治そう治そうだなんて無茶なことを考えるからみんな自滅する!治りもしないのに無駄にストレスだけ抱えて人生が辛くなっていくんだ!この病気が治るとしたらそれは一つしかない、つまり、こんな病気があるということは、気にしないということです……、はぁ、はぁ、いやあ失敬、普段は抑えているのですが、今でもたまに『こう』なってしまうというわけですよ、はっはっは」

いつもの暖かい微笑みに戻った医者だったが、その奥に狂気の星が煌めいて見えるのを今度はエム氏が見逃すことはなかった。

「それはつまり」

エム氏は続ける。

「そうそう治らないものを放置しているのだから、死ぬまで治らないということですか」
「そういうことになるかもしれませんね」

いつものような暖かい、要領を得ない答えだった。

「私は苦しんでいます」
「そうでしょう、そうでしょう、苦しみはよく分かります」
「私は解放されたいのです」
「だめです、自殺だけはいけません。エムさん、あなたはひょっとしてまだ病気を治そうなどと思っているのではないですか、そうやってストレスが溜まるからそんな事を考えるのですよ、ほら、私が言ったことは正しかったでしょう、全ては気の持ちようです、『治さない』、一生つきあっていく、その覚悟こそが
「いえ、すみません、お話を遮るようで申し訳ないのですが、でもですね、私が聞きたいのはそういうことではなくて」
「は?」
「ですからね、診断書を書いてほしいということなんですよ」

「は、は、は、は、はあああああああああああああああああああ、はあああああああああああああああああああああああああああああああ~~~~~~~~~~~~~~~~~????????????????はあああああああああああああああ??????????????し、し、し、し、し、診断書ォオオオオオオオオオオオ~~~~~~?????!!!!!!!?!?!?」

エム氏は例の10年前の事故で左右の聴力を失っている。どんな絶叫もエム氏がポケットの中で補聴器のスイッチを切る手にかかれば一捻りというわけだった。この設定は今作った。

「ええ、ですからね、診断書ですよ、診断書。」
「な、な、な、な、なんで急に」
「私はお医者さんのいうことが正しいと思います。『朝起きて髪型を整える時にぐずぐずして30分もかかってしまう症候群』も『わざと電車に乗り遅れるように荷物の支度をする症候群』も、治るようなものではないのでしょう。しかしバイトに遅刻するのは困る。そこで診断書を書いてほしい。診断書があればどうにか許してもらえるかもしれない」
「あのね、エムさん、あなたは臨床ということに無知だ、DSM-XXXXVIIIを曲解している」
「すみません、専門用語はわからないので分かりやすくお願いします」
「ええ失礼しました、DSM-XXXXVIIIというのは統計用のルールであって、臨床のルール、診療室のルールとは全く違うものなんです」
「そうなんですか」
「ええ、ですから臨床の場においては、患者が病気であるかどうかを診断する権限は、表向きはどうあれその医者に全権が委任されてると言って差し支えないんですよ」
「つまり、あなたが」
「そう、私が。」

まずいことをしたかな、とエム氏はちょっぴり思った。

「それでですね、臨床の場ではですね、例えばあなたが『双極性障害II型です』とか『統合失調症単純型です』とか、そういう診療を出来ることはほとんどないんですよ、とくにこういう、カウンセリングも兼ねているような場では、ゼロです。我々にせいぜい書けるのは、『双極性障害II型の"傾向ややあり"』程度くらいといったところでしょうかね」
「……、それは、つまり、会社に持って行って、どうにかならないということですか」
「まあ、上司の方が、どう判断されるかはわかりませんが」
「ええと、でも上司の方も理解はあるわけですよね、理解は」
「いいえ」

珍しく医者が悲しそうな顔をする。

「社会の理解が追いついていないのが現状です」
「追い付いていない、というのは、つまり」
「その診断書を、仮に『傾向あり』でなく『そうである』と書き換えて提出しても、何も変わりませんよ」
「そ、それじゃあ、あなたがた、この超未来二十二世紀型生き辛さ誘引疾患分類診断総合センターの職員の皆さんは、それが理解されるように努力してなさるんですか?」
「いいえ、我々としては何も」
「何故ですか?」
「忙しいですし、それに……」
「それに?」

エム氏はかなり苛立っていた。

「だって誰かがやってくれてるんじゃないですか?それにすぐに浸透することでもありませんから(笑)気長に行きましょうよ気長に(笑)」

医者はあっけらかんと答えた。

「ふっ、ふっざ、ふっっっっざ、てめ、てっめ、てめ、てっっめええええええええええええ、ふっざけんなあああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」

小太りの医者の胸ぐらを掴み上げる。

「さっ、さっ、さっさっさっ詐欺、詐欺、詐欺じゃねえかあああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!これは詐欺だ!!!!だってそうでしょう、だってお前ら、我々が病気だ何だって言っておいて、それで高い金をぶんだくっているくせに、というかそもそも我々が存在しなければ仕事にありつけすらしない癖に、それで治りません治さないようにしましょうストレスを溜めないのが大事です認知を矯正しましょうって、しかもそういう分類を与えるだけ与えておいて、それが実際に仕事に悪影響を引き起こすくせに、理解を社会に浸透させません、努力しません、忙しいから、まあ誰かやるでしょう、それでも時間がかかりますし、何だお前らは!!!何だお前らは!!!!!!!詐欺じゃねえか!!!詐欺じゃねえか!!!金を返せ!!!!!金返せよおおおおおおお!!!!!」
「ど、ど、どうか、どうか落ち着いて」
「知らん!!!自分はもう帰る、不愉快だ!!!もう二度と来ない、今日の分の金さえ払って二度と来ない」

エム氏は怒りに燃えながら待合室の安椅子に腰掛けた。
受付と患者が話す声が聞こえる。

「……それでは本日診断になったのは以下……」「……ええ、『靴紐が上手く結べなくて5分かかる症候群』と、『歩き方が分からなくなって30秒かかる症候群』、それから『夜ゲームをしてしまって20分寝れなくなる症候群』と、それから……」「……今日は16点の登録になりますが……」「……これまでのと合わせて、合計142点……」「……お会計は……」

そこから先はもう聞きたくなかった。エム氏は怒りも忘れて頭を抱えた。
それって結局、どこにでもいるようなただのダメ人間じゃないか。

呼ばれるのが遅い。何をしているんだ。引き止めの工作をしたって無駄だ。エム氏が苛々していると、裏から電話の声がする。

「ええ、ですから遅刻します」「遅刻しますって、なんだ、お前12時だぞお前!!!」「はい、12時です」「はいって何だよ!!!」「私は午前6時に起床したのですが、『朝食を取るのに30分かかる症候群』、『ものぐさで書類がどこにあったか分からなくなる症候群』、『憂鬱で自転車を漕ぐ速度が遅くなる症候群』、それから諸々で準備ができたらこんな時間になってしまいました、もしかして○○さんはご存じないんですか、これはイガクテキニショウメイされた立派な病気なんですよ、……」

馬鹿だなぁ、とエム氏は思った。何を勘違いしてるんだろう。寝坊は誰にだってあるんだ。そういう時は、「風邪を引きました」ですまなそうにすれば良いんだよ。何、休んだ自分の方が正しいみたいな格好して上司に説教垂れているのだろう……。そんなこと言ったら、きっと……

「そんなどうでもいいこと、知るか!!!お前はクビだ!!!」

電話は切れた。

『最愛の娘私の十四つの誕生日に』

14歳ですよ14歳。17進数で数えたらだけどね。どんどん年を食っている。辛い。24時過ぎちゃった以上は最早誕生日ですらないのだけれど。

なんとなく私の人となりについてでも嘆こうと思う。

私は、客観的に見た時に当然そうだと思われるような性格と、自分自身でそうだと思っているところの性格が全く一致しない。

私は、他人と一緒にいると非常にどぎまぎした気分になる。私は会話が得意な方じゃない。相手につまらない思いをさせていやしないかと思うと胸が詰まりそうになる。普通はこういうのを気配りが出来るとか気が利くとか言う。少し悪く言えば気にしすぎだとか神経質だとか自意識過剰だとかになるかもしれないけど、あまり言われることはない。

私が相手がどう思っているかにずっと気を配らせるのは、別に優しいからではなく、脳が無条件にそうさせるからだ。何の感情も伴わないし、辛いだけだから可能ならばこんな回路捨て去りたい。何についても気を配るのは、相手の気分を害するのではないかと何につけてもびくびくしているからだ。単に底抜けに臆病だからだ。

私は、自分では、自分のことを、最低のクズで、誰からも嫌われて当然な人間だと、強烈に思い込んでいる。周りから見ると、コミュニケーション能力にやや難がある以外には完全無欠の優等生なのにも関わらず。話し方にしたって妙という程じゃない。発達障害だとは思われないだろうし、「ああ、こういう人よくいる」程度。それよりもあまりにも学業が完璧すぎる方が強烈に印象を形成する。
それでも私は、私の脳は、お前はゴミだ、死ね、消え失せろ、自殺しろ、そう指令を出し続ける。他人と話している時に。お前はこの人から嫌われている。この人に不快な思いをさせている。お前は人を無条件で不愉快にする。目の前の相手は微笑みながら世間話をしているのに。自殺したくなる。絶叫したくなる。
私の頭が、何か凄く異常な状態にあるんだろう、それは分かる、でも何がどうおかしいのかが分からない、分からない。
実のところどうしてこういう風になってしまったのかが小学生の時に引きこもった辺りまで人生中の思い出をひっくり返しても全く分からない。ただ、高校2年生にそれが原因で中退したから、その時までに決定的に頭に傷を負っていたのは確かで、中3と高1の時は平和だったから、中2までにおかしくなっていたということか。

まあ今日は私の現在について嘆きたかったわけで、そんな昔話はどうでもよろしい。
私の自己認識と他人から見た私の像には常に埋めきれない深い溝がある。だから他人は私の発言に対して時々びっくりする。私は平然と自虐ネタをやる。私の自虐ネタは、なんというか、その、少し「度が過ぎて」いるらしい。私が自虐ネタをやる度にみんな本当にびっくりした顔をする。そして他人のびっくりした顔を見て私がびっくりする。あれ、今のそんなにおかしいこと言ったっけ、と私はいつも困惑する。私の自己認識では私はゴミだから、ゴミが自虐を言うのなんて当然で、相手も私のことをクズのように見なしているはずだから、きっと笑ってくれるだろう、そういう感じで自虐をするので相手は凄いびっくりする。相手からすれば自虐をするような人には見えない、そんな風に自分を認識しているとは全くわからないからだ……。
あと、特に世間話をするのが得意なわけでもないので、そして趣味があるわけでもなし、なにか話そうとするとすぐに自分がいかに最低な人間であるかについて話して笑おうとする。本当にひどい人生ですよね、って。
よくよく考えたらひどい人生を笑うというのがそもそも普通の人には理解されない概念なのかもしれない。私みたいなのは、自分の人生で悪いことがあればあるほど、ああこれが私のあるべき人生なのだ、そう思うとおかしくてたまらなくなってくる。

自分が普段考えていることを文字にしてみるとそのあまりの奇怪さにびっくりする事がある。今自分で驚いている。

次の誕生日までには治っているのだろうか。
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