All-in

決めた。決めたよ。
私の人生に可能なのは、研究者以外に有り得ない。
研究者になるために、私に出来る限りのあらゆる努力をする。
努力と呼ぶのもおこがましいような甘っちょろいことはこれまでも一応してきたかもしれない。だからこそ目の前に今この選択肢がある。
今までのような甘っちょろいものを廃して、本物の努力をする。
これで失敗したら、野垂れ死に。文字通りの"All-in"だ。

でも別に大した努力も出来ずに野垂れ死にでもいいか、と思っている。

私には選択肢がある。就職という選択肢が。
長く付き合わない限り、私が対人恐怖症を抱えていて、コミュニケーション障害で、うつ病を抱えた無趣味のアンドロイド人間であることは誰にも分からない。面接くらいなら、ごまかせる。そこそこ楽な仕事を見つけるのは多分難しいことじゃない。
でも、それで、就職した私、一体どうするんだろう?
私は仕事から疲れて帰ってきて一体何をするんだろう?部屋には何も無い。だって無趣味だから。徹底的に歓びを感じないから。家賃と食費と光熱費を差し引き、残りを全て預金通著に突っ込んで、「金の使い道が無い」なんて嘆いて、それでも手を伸ばすのはなんだろう?言語学の本だよ……。
虚無だよ。社会人になって金を手に入れて、余暇もそこそこあって、読むのが言語学の本。馬鹿げてる。金の使い道がないならキャバクラでも風俗でも行こうか?冗談だろう。私には金の使い道がおよそ封殺されている。
それで、社会人にも学者にもなれないで、一生悶々としながら、多分うつ病か何かで、死ぬんだよ。馬鹿みたいな人生だよ。
どうせ言語学に魂が囚われているのなら、それに人生を賭けた方がよっぽど有意義だ。

本当のことを言うと、私の魂が言語学に囚われているのではない。むしろ私の魂が言語学に必死に縋り付いてそれを話さないんだ。
サイエンスがやりたかった。中学・高校の自分がおよそまともだったら。数学と化学と物理を勉強して。理系の学部に入って。きっと生物学と化学を勉強したかった。それが私の本当の気持ちだ。だけどそれはもう無理だ。もう、無理だ。大学を再受験するならどうやっても入学年が23歳にはなる。学部卒で27歳。修士卒で29歳。最短で博士まで行って33歳。そしてようやく博士を出たと思ったらストレートで博士を出たずっと年下の、しかも理系の淘汰を勝ち抜いてきた世界中の大天才が私の業績を全部粉砕していく。そんな人生、いくらなんでも耐えられない。
でも言語学は。言語学なら。これは唯一私の希望に、半分くらいは沿ってくれるもので。私のこのくだらない人生に、唯一可能な、人生に有意味な、宇宙の深淵を見るための、何か。

こんなことを書くなんて何の歓びも感じていないからうつ病か何かなのか?まあいい。

化学。生物学。あれが。あれがきっと。あれがきっと私の本当にやりたいことだったんだ。辛い。むごすぎる。こんな人生。

でもこういう時は下を見ろ。自分のやりたいことがなんだか分からないで死んでいく動物みたいな奴らよりはマシかもしれぬ。あるいはやりたい事に気付いた時に既に齢30や40を数えているよりは遥かにマシなのかもしれぬ。そして本当にやりたいことをさしおいて、それなりにやりたいことが存在してくれていて、しかもそれでそこそこやっていけようなどと言うのだから私は天に愛されて恵まれて尽くされているとしか思えないような奇跡僥倖幸運だ。

さておき。

私の脳は、私の魂は、ストイック過ぎて、勉強以外におよそあらゆる楽しみの類を寄せ付けないようだ。

それならまともに就職する事になんか意味があるのか。

無いや。

就職して余暇と金を手に入れて言語学の本を読んで論文も出せず最新の学会の動向も分からず日本の片隅で悶々として死ぬだけの、くだらない人生なんて。

30までに野垂れ死ぬ。

それが私の目標だ

閉ざされた扉

結構ぶっちゃけて書こうとしたつもりだったのになぁ。

この前の記事、読み返してそう思う。

オブラートに包みまくってて、これでは綺麗なルーミア厨さんのままだ。

私の心の扉には、誰にも話していないことがあと3枚くらいはある。

まあ、待ちましょう、時を。

性別の針

流石に色々時効だと思うのでこの話についてそろそろぽつぽつ書き始めてもいい頃なのだと思う。(時効ってなんだろう。要するに私の精神を素の女性として認識している人は、多分この4年間で居なくなったんじゃないかということ。)
それと、最近、死期が迫ってる。あと10年生きられないだろう。いつだって死期を悟った人間は、それまでずっと人に話せなかったようなことを、死ぬ前にせめて誰かに聞いてもらいたいと思うものだから。

きっと書いたら後悔する。後悔するだろうけど、最早耐え難く辛い。一人で抱えて死ぬのも嫌だ。

つまり、私の性自認の話だ。

こう見えて私はインターネット上で自分の性自認に関わる話を徹底的に避けてきた。……今の文を読んで、反応は二つに分かれるのだと思う。「いっつも女子高生がどうとか言ってるじゃないか」と思う人と、「ああ、確かに、ルーミア厨はその話だけはほとんどしない」と思う人。後者の人は、聡い。そこまで私を深く視てくれている人がいるのかどうかは分からないけど……。
私はこの話だけは本当にたったの一度もしたことがないんだ。

「×性の身体になりたい」……これだけ腹を括って書き始めたのに、きちんと書くことが出来ない。書きたくない。嫌だ。それくらい私の中でこの話は重いんだ。

辛い。この行を書くまでに、既に5回くらい書き始めて、全部言葉にならなかったので削除して書き直し始めている。本当に「辛い」以外の言葉が出てこない。深い絶望に頭の中にもやがかかって言葉が前に進まない。進まなければ。前に、、、

この話について全部を一度に書き切る事は出来ないから。きっと今日の話は酷く一面的なものになる。誤解を生むかもしれないけど。
死にたくない。嫌だよ。死にたくないよ。



私の頭の中には、性別の針がある。

気付かないだけで、それはきっと誰の頭の中にもある。

ほとんどの人にとって、その針は生涯を通して殆ど動かない。

だけど、それが非常に不安定な一部の人間にとって、そう、例えば私のような人間にとって、その針は、何の脈絡も理由も無く、ただ無機質に周期的に女性と■性の間で振れ続ける。臓腑を抉るような苦痛を勝手気ままに与え続ける。

正確に言えば、私の場合、針が■性まで到達することがない。これだけは、本当のことだ。だいたい女性と中性の間で振れる。尺度なんて無いし、本当にだいたいだけど。

中性まで振れている時は生きるのに全く苦痛でない。性別のことも、辛いけど、そこまで気になるわけじゃない。死にたいと思うようなことは、ない。

女性に完全に傾いた瞬間が一番辛い。

この「針が女性に傾く」というのがどういう様相を呈する状態なのか伝わらないと思うので、少し詳しく書きたいと思う。
別に考え方が乙女チックになるだとか、かわいい女の子になりたくて仕方なくなるとか、そういう事があるわけじゃない。そんなくだらないことならどんなによかったことか。
症状はたった一つだけ。「女性の体に生まれたかった」という絶望が脳を支配して非常に深刻な抑鬱状態を引き起こす。
今も自殺寸前で死にたくないからとにかく一秒でも長く抑鬱をやり過ごすためだけにこうして今タイプしている。
私が頻繁に抑鬱に陥るのはみんな知っていると思うけど、「いつ」「何が」最初のきっかけだったのかはあまり書いたことがない。中学1年か2年の時。思春期のまっただ中。「自分は一生女性になれない」という事実に絶望して、人生で初めて抑鬱状態に陥ったのだった。
最終的に、その頃定期的に陥っていた抑鬱状態とは、それ単独で一生付き合うことになった。脳をぶっ壊して回復不能しまうくらい、本当に、辛いことだった。

「女性の身体に生まれたかった」というのと「かわいくなりたい/女子高生になりたい」というのは、天と地くらいの差がある。
実のところ、後者は全く性自認の話ではないからだ。
誰からも相手にしてもらえない現実のみじめな自分。生きているだけでちやほやしてもらえるかわいい女の子。成り代わりたいと思う。ここに性自認の介在する余地は一切存在しない。ただ単に承認欲求が満たされていないだけだ。だけど性自認の話をしないで女性になりたいと言いたい時には便利だからよくこの方便を使う。
「女性の身体に生まれたかった」と私が思うときは、承認欲求のことなんて、一切考えて、いない。どんなに不細工だったっていい。綺麗なプロポーションなんて無くたっていい。声だって綺麗じゃなくていい。どんなに醜くとも、とにかくそれが女性の身体であって、女性として扱ってもらえるのなら、自分が、自分のことを、女性だと認識出来さえするのなら、それで。
「女性として扱ってもらう」というのは語弊があるのかもしれない。別に異性として認識される必要はない。とにかく外見が女性でありさえすれば何でも良い。かわいくなくたって美しくなくたって醜くたって不細工だって本当になんだって良い。ただ、「自分が女性である」という事実を受け入れられるのなら。性自認の通りに現実がなるのなら。
普段から方便と虚勢で「かわいくなりたい」と言ってばかりなので私が一体どのくらい低いレベルを想定しているのか全く伝わらないだろうけど、具体的に言うと別にマツコ・デラックスみたいな外見でも全く構わない(アレは男性だけど)。「女性になりたい」という事への根本的な欲求はそれくらい酷い。美醜なんて全く問題じゃない。女性であると自分で思えるかどうかだけが重要で。性別の針のシステムはそういう風にできている。
この願望は、酷く泥臭く、「女子高生になりたい」なんて虚仮とは別次元の深さにあり、精神の本当に根っこの所で何もかもをねじ曲げてぶっ壊す。
抑鬱になって、全てが終わる。

お願いだ。助けてくれ。昨日からおかしいんだよ。あんなに楽しそうにしてたじゃないか。文系と理系のコウモリみたいな場所にいて。それでもやっぱりサイエンスだからこれは楽しいんだって。世界は広いから勉強しようって。世界が開けて何もかも幸せそうに見えてたじゃないか。それがこんな、こんな、こんなくだらないことで、昨日からだ、針が一瞬で女性に触れてからだ、あんなに楽しそうだった世界が灰色に見える、何も面白いと思えない、女性になれないのに勉強なんてして何になるんだ、職にありついてなんになるんだ、あわよくば大学の教員になって一生好きな本を読んで暮らして、そんなことをしても女性になれないのに、あるいは適当な会社に就職して楽な仕事でたくさんの金を手に入れて、それで、それで、それに何の意味があるんだ、女性になれないのに、女性になれない人生に何の価値があるんだ、女性になれないのに生きていて意味なんてあるんだ、勉強なんてなんの意味があるんだ、女性になれないのに、女性になれないのに、そればっかりだ、そればっかりだ、もういやだ、助けてくれ、女性になれないのに、それで全部無茶苦茶だ、私が抑鬱から解放されようとして、普通の人間になろうとして、積み上げてきた全部、何もかも

客が市場原理にかけられること。

ああ。そうか。市場原理によって駆逐されているのはゲーム会社ではなく"私"の方なのだ。
一人の客にも選ばれなかった会社が滅びるように、私のような客は一つの会社にも選ばれていないから、私は滅びる運命にあるのだ。

ソーシャルゲームを見ていて思ったこと。

最近、僅かながらお金が手に入るようになった。CDを買ったり漫画を買ったりするのもいいけど、何か別の、パーっとした使い道を探している。出来ればゲームがいいかな、という路線で。ところが肝心の課金したいと思えるゲームが探せど探せど全く見つからない。
それもそのはずで、今どきゲームに課金しようと思ったら、SSR?とかいうのを揃えるのにとりあえず5万が最低ライン、しかもそれが毎月必要、というか金の力で他人の上に立って優越感に浸りたいなら月に50万は出さなければ無理だよ、そういう意味不明な世界にゲーム業界が到達している。しかも全てのゲームで。
でも私がやりたいのは、せいぜい10000円か20000円くらい出せば無茶苦茶強い装備と交換してもらえて、それっきりで
、わいわい楽しめるようなゲーム。そんなのがやりたい[注1]。
でもそういう課金形態を取っているゲームっていうのが無い。マッッッッッッッッッッジで一つもない。

上に書いた金額の多寡はまず問題だし、他に金額の安定性の問題もある。昨今のPay to Winゲームは、課金の形式として全部ガチャを採用している。「1000円課金する度に○○分だけ強くなれます」みたいなゲームってマジで無い。課金出来るものはガチャしかない。
それはとても嫌なんだ。だって収入は決して多くないから。多くて月2万くらいしかない。確率を収束させられる額じゃない。課金した分を全部ドブに突っ込む可能性がある。そういう意味で手が出せない。

さて、私が求めているゲームを繰り返せば「そこそこの額」で「課金額に対して強くなる量が比較的安定」しているようなゲームなわけだが、こんなゲームは現代に存在していない[注2]。

では何故そのようなゲームが存在しないのだろうか?

簡単な話で、私がある意味「買い叩かれている」からだ。

ゲーム会社は何を考えているだろうか。さあゲームが出来ました、あとは課金体制をどうするかだけ考えましょう、という時に、その会議に出席した重役達は次の状況を見てどう考えるだろうか。
プレイ人口は3000万人程度いると思われる。そのうち2500万人は無課金でせいぜい軽課金、450万人は月数万の課金をする予定がある、そして50万人だけが月に数十万から数百万円の課金をしてくれる。この時、あなたの会社はどの層をターゲットにして課金体制を整えてやるのが適切なのか?決まりきっている。膨大な金を捧げてくれるごく一握りの富裕層だ。
実際の人口比と実際の課金額は絶対にこの通りではないけれど、「ごくごく一握りの富裕層」をターゲットにしてしか作られていない課金体制の氾濫が、上に書いた図式が方向性として正しいことを実証している。
どんなゲームのガチャも仕組みが同じ。オール・オア・ナッシング。無課金でそこそこ遊ぶこともできるが、課金したいとなると、にわかにスタートを切るための額が跳ね上がる。5000円だけ課金する、20000円だけ課金する、それで満足させてください、そんな選択肢は、無い!課金のスタートは100000円。ガチャの確率は収束しない。100000円以下の課金というのは「してもいみがない」、完全に金ドブになるということ。この課金体制はハナっから、「大富豪しか課金しても意味が無い」システムになっている。

何故そんなシステムが跋扈したのか?簡単な話で、その方が儲かるからだ。月に50万円捧げてくれるプレーヤーが数百人いればそれだけで利益が出る。じゃぶじゃぶでる。その利益は、たった1回のヒット作を出すためにゴミみたいな企画を数十個乱造するコストを上回って遥かに高い。だからスマホはあの課金体制のゴミみたいなゲームだらけになったのだ。

翻って私達、所得の底辺を生きる貧民達。使える金は、月2万。
なんだこれは、おかしい。おかしいじゃないか。月2万だぞ。月2万あったら十分じゃないか。富裕層ほどでもないが、そこそこ裕福な暮らしじゃないか。なんで月2万も用意できるのに欲しいものが手に入らないんだ?

それはねえ、私がある意味、「買い叩かれている」からだよ。

ゲーム会社が3つあるとするよね。A社は凄く面白く、B社はそこそこ、C社はクソゲーを作る。商品を買ってもらえて人気がでるのは絶対にA社だけだよね。残りの2社のゲームは屑になる。この時の「客」はゲーマーだ。
このゲーマーっていう連中は、B社やC社の事を考えもしない。B社のゲームだって、そこそこよくできてるんだ。値段相応でもあるんだ。むしろおかしいのは同じ値段で神ゲーを作ったA社の方。でも客はそんなことは考えもしないでA社のゲームを遊び、B社も、C社も、足蹴にして、踏み捨てる。

じゃあ、ゲーマーが3種類いるとしようか。Aさんは金がじゃぶじゃぶ使える独身貴族、Bさんは月に2万円払える程度の貧民、Cさんは無課金の中高生。ゲーム会社はこの中の誰かをターゲットにしてゲームを作ってくれるんですってさ。
得をするのは絶対に独身貴族だけだよね。このゲーム会社ってやつは、貧民や中高生の事を考えもしない。貧民だって、そこそこには課金してくれるんだ。でもそんな事も考えないで、貧民は足蹴にして捨てられ、私には、課金する選択肢は残されない。

私達が「ゲーム会社同士」で平然と比較を行うように、ゲーム会社もまた「客同士」で残酷な比較を行う。
深淵を覗きこむ時、深淵もまたあなたを。
そして眼鏡に叶わぬ私は切り捨てられ、何の商品も供給されない。
私を値踏んだのは、名前も知らない、ただ私より金を持っていてゲーム会社に気に入られる素質がある、たくさんの誰か。

だから市場原理の戦争に負けた私はこの莫大な金の使い道もわからず呆然とここに立っているしか出来ないんだ。


















注1:「10000円か20000円も出せば~」とのくだりを見てメイプルストーリーとかアラド戦記はまさにそうなのではと思った人もきっと多いだろう。それは正しいのだけど、メイプルストーリーで課金TUEEEEするには公式のサービスを使ったのではとてもダメで、どうしてもRMTをする必要がある。つまり公式の課金形態ではなくて、それは今話したいことではない。一方公式でRMTが実装されているアラド戦記は……課金してまで遊ぶなら当然エンドコンテンツをやることになるだろうけど、アラドのエンドコンテンツはスキルポチッ敵グシャアアアアアって感じじゃなくって謎にギミックじみているので課金してまで遊ぶ気になれない。異界関連がリメイクされたら是が非でもやりたい。

注2:実はこの条件を満たすようなゲームがこの世に1個だけある。そのタイトルこそ「わくわくフィッシング」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。このゲームは大変に面白いし、あと蒐集欲を満たしてくれるので本当にお気に入りだ。最近やってないけど。

忌まわしき夏の日の記憶

何故私の自己肯定感はこんなにも低いのだろうか。その理由を、去年の夏に見た地獄に求める。

私が見学したのは、知的にアレな子供の通う学校。そこには自傷癖のある子供がいっぱいいた。何の前触れもなく壁に手を打ち付けたり、腕を打ち付けたり、極端な子では部屋中に響き渡る強さで頭を壁に振り下ろし続けていたのもあった(止めずに続けていたら死ぬレベルだと思う)。
ああいう子供は何の意味も無く自傷をする。特に怒られたわけでもなくても自傷をする。恐らく、脳からそのような指令が無制限に放出されているに違いない。

一つはっきりしている事がある。
それが普通の人間であれば、どんなに酷い拷問をしてもそんな行動を自発的に繰り返すようには出来ない。
小学校や幼稚園のような、人生の中で最も後々に決定的と思われるような時期にひどいいじめに遭わせても、叫び声を発しながら自分の腕を壁に叩きつけ始めるような化物に変えることは出来ない。
そんな行動が習慣の一部になることがあるとすれば、それは単に、それが生まれ落ちた時点で既に化物であったのだ。

そうだとすれば、翻って。

確かに小学校の頃から私はいじめられ続けていた。
でも、普通の人間は、「こんな風」にはならない。
後の人生でここまでの成功を手に入れて、尚他人といるだけで相手が自分の事を不快に思っているに違いない、胃が痛くなる、死にたくなる、消えたくなる、自殺したくなる、飛び降りたくなる、そんな風には、ならない。
そもそも私の辿った人生からして、一人の人間を「こんな風」に変えるほどに酷かったとは思えない。
知り合いは少なかったが、小学校に入学して三日目に「お子さんは休み時間に自由帳に絵を描いてばかりで友達を作ろうとしません」と親が呼び出されるような子供だったから、そんな事が苦になったわけがない。というか、今でも全く苦にならない。
それなりに直接的に酷いこともされたが、同じようなことをされて普通に生きている人など、インターネットを探せばいくらでも見ることが出来る。
「こんな風」にまでなったのは、実のところ、私の知る限り、私たったひとりなのだ。

知的に障害のある施設の生き物に情を移す気はないが、私の母方の家系、そして私自身の知能検査の結果、そういったものは私の脳がああいう化物とかなり似たような構造を持っている事を明白に示している。人並みに物事が考えられる時点でほとんど奇跡みたいなものなのだ。実際にいとこの一人は中学の時点で普通学級に通えなくなった。
それならば、ああいう自傷行動の因子のようなもの、世界に贖罪を要求するもの、自己肯定感をゼロを通り越してマイナスにまで突き落とす機構が、私の脳にも組み込まれていると考えるのはあんまり乱暴な話ではない。
つまるところ、この物語は単に私が生まれ落ちた時点で欠陥品であったという筋書きなのだ。
戯曲通りに役者は踊る。逃れる術は、無い。
プロフィール

Author:ルーミア厨
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