解離性同一性障害と「メンヘラ」は実は全く同じ病気の二側面じゃないかみたいな

私は俗に言うメンヘラだ。
メンヘラだから、自分を悲劇のヒロインか何かだと思っている。
「私の不幸と苦痛は崇高で美しく、常人には決して理解され得ない」。

メンヘラに共通して見られるこの歪んだ思想には実は非常に現実的で重要な機能があるのかもしれない。

確かにメンヘラは自分の不幸を過度に強調しがちで、どうでもいいことでぎゃあぎゃあ騒いでいるように見える。それは目の前の今この瞬間には正しい。
だけど、今この瞬間からちょっと身を引いて、その人の人生全体を最初から最後まで聞いてみると、大抵の場合、常人とはちょっと比べ物にならないくらいヤバくて純粋に不幸な人生を送っている。
私の周りのメンヘラについては、これは全員そうだ(各人についての非常に限りある情報から察する限り)。

こうしてみると、メンヘラっていうのはある種の適応なんじゃないかという感じがしてくる。

メンヘラは、人生のある時期に言語に絶する様な不幸を経験していて、それ以来些細な不幸についてぎゃあぎゃあ喚かずにはいられなくなった人達のことだ。
この「ぎゃあぎゃあ喚く」というのは、大昔に経験した壮絶な不幸を乗り越えるための適応が、今でもまだ尾を引いた結果なんじゃないか、と思う。

不幸を耐え忍ぶ方法には色んな形があると思うけど、その中の一つに、「人生を戯化する」というものが間違いなくあると思っている。
目の前の人生は自分の人生ではない。本物の人生ではない。現実の人生ではない。空想上のキャラクターが、物語の中で負わせられただけの、想像上の物語である。
そういう風に考えたら、苦痛も少しは和らぐ。
この心理には解離性同一性障害とかなり似たところがある。とにかく自分の不幸を自分以外の別の存在に負わせてしまうということ。

だからメンヘラの思考が、根本的にガキで、みっともなくて、幼稚で、見てらんないことを平気で言うのには理由があるわけだ。
私らは、キャラクターなんだ。「小説家になろう」の作家ですら作らないような、下手くそなキャラクター。

解離性同一性障害が、自分の中に複数の人格を作り、その中の一つに不幸を負わせる適応だとすれば、
メンヘラとは、自分以外の人格を作る代わりに、自分の人格そのものをキャラクターに変造してしまい、不幸を軽減する適応。

この手のキャラクターには酷く倒錯した作用がある。
「物語の一部として理不尽に不幸を押し付けられている」という以上の設定を持たないから、人生の不幸が終わったらキャラクターの役割はそこでおしまいになる。ばいばい。
本来なら、そうなるはず。
メンヘラが解離性同一性障害と決定的に違うのは、解離性同一性障害ならば、「本来の人格」と「不幸時専用の人格」が明白に分かれている(と聞いている)ので、人生の不幸な時期が終わったら、余分な人格を切り捨てて、二度と起動しないだけで済む。それだけで常人に戻れる。
これに対してメンヘラは、自分の元人格自体を捻じ曲げて「不幸を背負ったキャラクター」に作り変えてしまう適応であるので、人生の不幸な時期が過ぎた頃には、戻るべき元の人格がもうこの世から消滅してしまっている。
メンヘラが不幸を乗り越えた後に待っているのは、「不幸を背負ったキャラクター」という「自分の存在意義」が消滅するという、アイデンティティー・クライシス。この世で最も耐え難い苦痛の一つに数えられるもの。
だから我々メンヘラは自分から好き好んで不幸を探して喚き続けるのだよね。そうしないと文字通りの意味でこの世に存在していられないからだ。

なんで誰も人のために働かないかって

私は基本的に、人間がきちんと仕事をしない場合、性格ややる気といった属人的な要素に原因があるのでなく、その人の置かれた状況に原因の99%があるのだと思っています。また、頭のいい人達が100人集まって仕事をすると必ずと言っていいほど馬鹿な成果が挙がってしまうことも知っています。理由なんて誰にも分かりませんが、どうも世界というのはそういう風に出来ているものらしいのです。
だから、国の大切な仕事をしている人達が国民のために仕事をしないのは、決して彼らの魂が邪悪だからではなく、彼らを真面目に働かせないような何かがシステム的に存在しているか、もしくは何百何千何万の人間が一つの組織の中で働く上での必然だと思います。

それでも、それでも、もしも、もし国の仕事が上手く行かないことの属人的な要因が何か存在するとしたら、そんなものについて語ることが許されるとしたら、私は一つしか無いと考えています。

学校です。

国の重要な仕事に就く人は、みんな学校で、「人のためなんかに絶対に働かないこと」を学ぶ。

これしか無いと思っています。

この国では、とにかく頭の良い人が大切な仕事に就きます。
私なんかより、ずっと頭がいい人達が、国の大切な仕事に就きます。
実際それが良いとか悪いとか、受験と実務の能力に相関が有るのかどうかとか、そういう問題は脇に置いておいて、とりあえずこれは動かしがたい事実です。

ところでそういう頭の良い人達が(公立の)学校という空間をよく評価しているのを私はただの一度も見たことがありません。
不気味なくらいにたったの一度も見たことがありません。
その代わりに、口を揃えてみんながみんな同じことを言います。

「予備校はとても快適で幸せな空間だった」と。(予備校に通ったことのある人限定になりますけど)

人の証言から浮かび上がるのは、(主に公立の)学校という空間が、勉強の出来る人達や頭の良い人達に肯定的な評価を与えない空間である、ともすれば、そういう人達を叩き潰すような空間であるということです。
それ、一体どういうことなんだろうって思うんです。何をもたらすんだろうって思うんです。
繰り返しになりますが、この国では頭の良い人が要職に就きます。それは間違いない事実です。
そういう属性を持った人達が学校という空間で100%の確率で酷い目に合わされます。
公立の学校は、いわゆる「普通の人」が集まる空間です。教師も同級生も、とにかく普通の人で出来ています。
頭の良い人のみんながみんな「普通の人」に酷い目に合わされるんです。
そんな人達が偉い立場に就いた時に、自分を酷い目に合わせた「普通の人」達のために、さあ身を粉にして働こうだなんて、有り得ない話だと思いませんか?

私だったら、「あのゴミどもをいかに酷い目に合わせて復讐するか」しか考えられないと思います。
控えめに言っても、精力的に働く気分にはなれないと思います。

学校という空間が、勉強の出来る事を肯定的に評価するような空間になったら、
絶対世の中良くなるんじゃないかって、私はそう思っています。

睡眠とルームランナー。

まるでルームランナーの上を永遠に走らされてる気分だ。

何も前に進まない。

まず、朝起きる。不安になる。中途覚醒なんじゃないか?またすぐ眠くなるんじゃないか?そうだとしたら外に出かけるの嫌だ。しばらく家の中でじっとしていよう。
数時間経つ。不安になる。どうも中途覚醒ではなかったみたいだ。でもそろそろ眠くなる頃合いだ。だって数時間しか寝てないんだから、一日きちんとは動けないに決まってる。家の中でじっとしていよう。
また数時間経つ。不安になる。絶望もする。ああ、結局一回も眠くならなかった。外にでかけるべきだった。今日はもう終わってしまった。もう寝ないといけない。
更に数時間経つ。私はまだ起きている。自殺したくなってくる。
ここにおいて何か進捗させようとしても、今度は本当に眠くなってきて何も手に付かない。

私の眠くなることへの恐怖感は少し病的に過ぎている。
眠くなることを回避するためならなんだってするのだ。一日に十六時間だって平気に寝る。
眠い時には絶対に何かしたくないし、眠くなるんじゃないかと思うと怖くて長時間の労働が出来ない。外にでることも。
怖いんだ。眠いのが。

私は小学生の頃からずっと睡眠障害だった。
小学5年生の時には既に不眠症に悩まされていた。
中学生の時は結局起きて聞いた授業は1時間も無かった。
高校生の時も通っていた間はそうだった。
今の学校に入っても、規則的な生活を出来たことは(今年の5月末から7月あたりまでを除いて)一度もない。
私は年がら年中眠いことに苦しめられていたし、規則的な生活が出来ないのに苦しめられていたし、一睡もしないで授業に出席しなければいけないのは本当に地獄だった。

眠いのが、こわい。
もう、眠くなりたくない。
眠い時にすみやかに寝て、起きている時に起きていたい。

そう考えると何も手につかなくなる。
勉強を始めようとしても、「途中で眠くなるんじゃないか?」と思うと怖くて集中できない。
外にでるのも怖い。とにかく外にいるときに眠くなりたくない。地獄だ、死ぬ、死ぬ、死ぬ。
眠れない環境で眠くなってしまうのは、私にとって、本当に、死に近いくらいの恐怖をもたらす。

人間は自分の頭からは逃げられない。
地球上のどこに逃げても、この恐怖からは逃げられない。
私は、永遠に進捗できない。
何も手に付かない。
もう嫌だ。

老境に於いて未来を見て過去を語るパラドクス。

極めて信頼できる情報筋から「最近コンテンツ力の低いうだうだをしすぎ、うだうだするのが悪いとは言わないけどブログでやれ」と言われてしまったのでブログでやることにした。
私もtwitterのアカウントを汚して好きな人に嫌われるような事をしたくない。

こんだけ長くtwitterやってると、書き始める前から、「あ、この発想はだいたい3ツイート分だな」とか、「これはちょっと10ツイートくらいだろうな」とか、そういうのが分かるようになっちゃって、で、それが分かると、いちいちブログ起動するのがしんどいから、あと更新回数むやみにふやすとRSSがアレだから、ってんで、あんまりブログ更新しなくなっちゃったんだけど、いやお前、ブログの更新回数増えるよりtwitterに妄言垂れ流すほうがよっぽど周りの人に迷惑でしょって。
だから短めのことでもブログにちゃんと吐き出すようにすることにしました。それがもともとの使いみちだしね。多分。

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最近中年や老人がうざったい昔懐かしトークをする心理が分かるようになった。
私は彼らの心理を誤解していた。
私はずっと、彼らが「あの頃はよかった、あの頃に帰りたい」という気分で昔懐かしトークをしていると思っていた。

違うのだ。
決定的に、致命的に違うのだ。
逆なのだ。

人が昔懐かしトークをしている時に思い浮かべているのは、輝かしい過去ではない。
実は、人は明白に自分の未来を見ているのだ。

どういうことか。

そもそも昔懐かしトークをするっていう行為がどういう心理状態で起こりうるのか──というより──どういう心理状態でないと起こりえないのかを想像してみてほしい。
貴方がどんなに幸せな子供時代を送っていたとしても、突然子供時代の思い出が現れて、「ああ、あの頃は良かった」と思わせられるような事など日常的にあるだろうか?そんな事は有り得ない。人間の頭が強制的にフラッシュバックさせるのは、脳のつくりからして、悪い思い出でしか無いらしいからだ。

昔懐かしトークをする人間は、別に懐かしい昔それ自体を思い出してその話をしているのではなくて、別のある強烈な心の作用があって、その副産物として昔懐かしトークをさせられる

その強烈な心の作用とは何か。

貴方が旅行していると考えてみてほしい。
二泊三日の旅程を終え、貴方は今、帰りの新幹線に乗るところでいる。
ああ、良い旅だった。素晴らしかった。あんなことやこんなことがあって──

そう、それが、それがまさに、昔懐かしトークをする人間の頭で起こっていることなのだ。
人間が過去にあった良い事を思い出すのは、それが終わる時だ。
人間が過去の良い時代を思い出すのは、人生が終わる時だ。
人間が昔を懐かしむのは、目の前にあと人生が何十年終わっていようと、その中に何の進展の可能性も認められず、実質上明白にその旅が終わってしまったのを悟った時だ。

だから、昔懐かしトークをする人間は、過去ではなく、明白に未来を見ている。
自分の、実質上終了した人生を見て、旅を振り返るように、懐かしい昔のことを思い出して──というより、思い出さされて──いる。

そして人間は、旅が終わる時、その思い出について、他人に語らずにはいられない。

何故だろう。私はゼロ年代インターネットについて語っていると、酷く恍惚とした気分になるのだ。
過去について語る時、私は明白に、自分の詰んだ人生を──未来を──見ている。何の価値もない六十年余を見ている。
私が過去について語る度に、その行為自体が、この旅の終わりを強化する。私は過去を語りながら、ああ、この旅は終わった、もう終わってしまったのだ、そういう恍惚に浸る。
別の言葉で例えれば、自棄酒やコンコルドに近い状態で、とにかく自分を破滅に追いやることが何故か快感をもたらしてしまう。「お前の人生はもう詰んだんだよ」と自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど快感が増す。
自分の人生を詰んだと思い込ませる手段として、旅の終わりを告げる手段として、旅の思い出を振り返ることが、古き良き懐かしい時代を振り返ることが、採択され、私にゼロ年代インターネットの思い出を無限に語らせる。

私がゼロ年代インターネットについて語る時、いつも目がトロンとしたような恍惚でいるのは、そして精神状態が最悪の時でいるのは、本来40歳や50歳の人間に起こるような心理を、この年(僅か17)にして既に引き起こしてしまっているからだ。

私の人生は、不幸と苦痛に塗れている。普通の人間には、こんな年(17)でこんなことわからない。わかっちゃいけない。
こんなに辛いことしかなくって、一体何のために生まれてきたのだろう。

最近、苦痛が極まりすぎて、自分の精神的な苦痛の複雑なメカニズムをひたすら記述することが自分の使命だと感じるようにすらなっている。そんな人間には私は近寄りたくないので、みんな私のことを嫌いに違いないんだと思う。

仮想世界・しあわせな宇宙

書いたのがすっげー昔だったので思い出せない。だけど確かこんな事を昔書いた。

「何故人間は不幸に塗れて生きていくようになっているのだろう」
「それは、幸福に浸ってぼんやりしてるような動物は全部死んだからだ」
「今不幸のどん底にいて、幸福を求め続けて働く、そういう生物が繁栄する」
「だから我々の脳には、不幸を検知するセンサーは嫌というほどあっても幸福を検知するセンサーはほとんどない」

「更に考えてみてほしい。機械Aは、幸福のために働き、そしてたまに幸福を手に入れて満足する。片や機械Bからは、幸福を感じる回路を完全に除いてある。だから彼は永久に働く。欲しい。欲しい。幸福がほしい。くれよ。なあ。幸福。幸福をおくれよ。頑張るから。いくらでも働いてやるから。どうか。お願いだ。くれよ、幸福を、くれ、くれ、くれ、くれ、……」
「AとBはどちらがよく働くか?当然機械Bだ」
「私達の頭が機械Bのように設計されてないとどうして言えるのか?「幸福」という決して手に入らない概念を追い求め続けるドン・キホーテのような生き物こそが我々だとどうして考えられないのか?」

大体そんな感じのこと、書いた気がする。
だけど今になってみるとこの考え方はダメだったなと思う。もっと他に考えるべきところがあったと。
今、この話では、「自然状態だと動物はすっげえ不幸で、幸福が欲しいので生きるための活動をする」ってのが大前提になってる。
だけど、「自然状態でもすっげえ幸福で、もっともっと幸福になりたいので生きるための活動をする」っていう動物は遂に誕生し得なかったのだろうか。
何の問題もなく、あってもよかったはずだと思う。仮に幸福生物と名前をつけてみる。
「でも幸福生物みたいなヌルい個体の横に普通の生物置いたら一瞬で淘汰されるっしょ?」
それはそう、それはそうなんだ。だけど、そもそも「何故この世の生物が全部幸福生物であるような宇宙がありえなかったか」という事を考えている。
それは宇宙を何百回リロールしても同じ結論になるのだと思う。何回生き物が発生しても、それは主に苦痛からの逃避を原動力にしていて、幸福で動く動物は出てこないのだと思う。
苦痛からの逃避の方が、生物という極めて限られた設計の上での、コストパフォーマンスみたいなもんが何かいいんではないかという感じがしている。
あるいは、幸福を出すなんて機構があまりに高尚過ぎるので、原始的な生物の間では発生し得ない。後の生物は全てその頃の遺物を引きずることになる。

たあいもない、門外漢の書いた噴飯もののトンデモよた話。それでもいいんだ、本人さえ考えてて楽しければそれでいいんだ。だってこの世は幸せに生きるためにあるのだから。
プロフィール

Author:ルーミア厨
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