気分が暗い時には絶望的なことばかり目につくもの。

「私の頭は、結局」化粧室の鏡台を前に呟いた、「鏡に写るこれが自分の姿だということが理解出来ないのだ。嫌だとか、辛いだとかでなく、単純に分かるための機構が無いのだ。何しろ女性が写っていないのだから……。私の頭には自分の姿の像が無い。何歳になっても自分が現実の中にいる感覚なんて持てない。目の前の視界はまるでゲーム機のモニタを覗き込んで見るかのようにどこかふわふわとして他人事のように人生が終わっていく……まるで自分の生なんて初めから無かったかのように」

眠剤を飲むと頭がクルクル回るよ!

眠剤を飲むと頭がクルクル回る!クルクル回る!私の名前はピーポーピーポー。こめかみのところがパカッと開いて、毒々しい色の黄色い回転灯が出てくるの!回転灯はクルクル回ってお部屋を毒々しい私色に染め上げちゃうぞ!だけど回転灯だけにクルクルしてもらったら忍びないから私も一緒にクルクル踊るの!クルクルクルクルピーポーピーポー。ちなみに私の能力は!好きなものを回転させることが出来るよ!お前の首をねじ切ってやる!

もしも腕が十本あったなら・・・そう願ったのが間違いでした。今や腕は10本あります、ですが10本もある腕というのは正直言って死ぬほどタイピングに使えないんです。ていうか、重っ、邪魔っ……。いや、だって、タイピングって腕2本でいいじゃないですか、それでキーボードカバーするじゃないですか、せいぜいで3本しか入らないですよ。どうすんのこれ。しかもそんなぎゅうぎゅうの状態ってタイピング効率悪いからさ。やっぱり動き慣れてる2本の方が効率よくねってなっちゃって。もう。まじほんと。なんで願ったんだろう。この10本の腕。私の名前は十戒。能力は、「10本の腕を操ることが出来る」……大したことなさそうだって?誰が10本の"僕の腕"だといいましたか?僕は持っている10本の内から8本を止めることで、近くにいる人間4人の腕を自由に動かすことが出来るんですよ……。

電波なことやろうとしたけど眠剤切れた。つかれた。眠くない。

久方ぶりに。

5:31 久方ぶりにこんなことをしようと思った何をしているかというともう随分とご無沙汰なのでほとんどの人は今見ているほとんどの人は多分知らないと思うのだけどとにかく手を止めないようにしてひたすらタイピングをし続けるというやつです、出来るだけもうなんていうかとにかく句読点も入れないくらいに全部吐き出してぐちゃーってやるので読むものではない、とにかくもう早くここですぐにUターンしてくださいという感じ。何を考えているかと言うと、もう、やけなのだと思う。色々嫌になっているのだと思う。本当に。私は泣き出したいんだ。泣き出したい。泣き出して、大好きな人に、よしよし、大丈夫だよ、なでなで、って、してもらいたい。でも、それは出来ないし、私はとても、とても感情を表に出さないような人間で、そういうのは、柄じゃなくって、出来ない。だから、小さい頃からずっと、つらいときは、インターネットで、吐き出して、きました。現実で吐き出すことが出来ないので、こうやって儀式めいたことをやって、代償行為としてかえるわけです。代償行為なんです。でもそれは所詮代償行為でしか無いから、こんなくだらないことをいくらやっても私の気は永遠に晴れないというわけなのです。だけど、しないよりはまし、例えそれが末期癌の老人に麻薬を投与し続けるような、リストカットのようなものだとしても、私は、まだ、生きていたいから。と、書いてみたはいいけど、多分生きてみたくもないのですね。本当はね。さておき。久々に民剤かっくらった。もう眠剤なんて本当に何週間も飲んでいないから。毎日眠くなるまで起きて眠くなったら寝るだけの生活なので、もう睡眠導入剤が必要なくなっちゃったのよね。よくないことだ。うつ病にはやはり生活習慣を直すというのが凄く効くんですが、まあ、でも、もう、いいのかもしれないね。このまま死んで。
再受験の事でも書きましょうか。えっとね、とりあえず参考書を買い込みました。必要なものをひとしきり。出来るだけ頑張ってはみました。だけどね、もう、なんていうか、だめなんです。いやね、やった分は出来るんですよ、出来るようになるんです、多分普通の人よりは早いスピードで。だけどね、やる時間が、もう、圧倒的に取れないんですよ。集中力が、続かない。質も悪い。少しでも出来ないとうううううううううううううううううってなるんです、一瞬で脳みそがきゅ~~~って何も出来なくなる、それで、大丈夫だよ、大丈夫、これは辛いことじゃない、私はこれが大好きだ、そしてこれは将来のためにもとってもいいことだ、楽しいことだ、そう言い聞かせはするんだけどね、もう、無理。端的に言って、無理。頭が、動かない。もう、どうしても。私は好きなことすらろくに出来ない。出来ることといったらLoLくらいのもので。あるいは小説を読むか。小説、最近読んでて、とっても楽しいけど、一昔前より、伏線とか、そういうものを覚えておく力が、随分なくなった、って感じてる。ただ、記憶にパターンのストックが多くなったので、先読み能力が記憶力の低下をカバーしていて、脳のメモリが食われることが少なくなったので、少ないメモリを使ってどうにか以前と同じくらいの能力を確保してる。だけど、これもいつまで続けられるのか。分からない。
手が止まっている。まあ、言いや、どうせ、もう、そこまででも、ないのだし。何も、気にしてなどいないのだし。今日は、泣くのが、目的なのだし。
進むことも、ひくことも、できない、えっと、この「退く」って、個人的に「ひく」って呼んでいるけど、実は「しりぞく」って読んだりするのかしらん。わかんないね。
ああ、もうだめ、みんざいかっくらったら、眠くなってきちゃった、手が動かない、頭が動かない、寝ることも出来ないのだろうか、隣で家族の目覚まし時計の音がなる。うるさい。つらい。ああ。今眠りたくないなあ、、、
眠り、眠り、眠り、ああ、そうだ、えっと、最近見た、とっても素晴らしかった、某AA作品、あれは、よいものでした、ひとしきりツイートして、AA作品読み直したら、うーん、私のプライオリティを置いた死に方が、ちょっとともしたら私が別の点に注目していると思われかねないと思ったけど、まあいいか、と思ったけど、でもやっぱりアレなので、ここで釈明しておくと、あれは別に、想い人の存在が大切だったわけじゃなくって、ああいうふうに、静かに死ぬというか、なんだろうね、よく説明できないんだけどね、苦痛がなくって、静かで、音が無くて、そして、世界に誰もいない。そういう死に方が、とっても救済だなぁ、と、そういう感じなわけです。
こうやって「そういう感じなわけです」という言葉が増えるのはよくない、非常によくないぞ、それは要するに、明確に言葉にして他人に説明できていないということだからだ、そしてそれは、間接的には、頭の中で思考として明確な形にされていない可能性を暗示している。これはちょっと面倒で、頭のなかで思考としてきちんとした形になっていても言語化出来ないこともあれば、頭のなかできちんとできていない"から"言語化できない、ということがあるので、どっちもあるので、まあ結局わからんということになるわけですが、いずれにしても、言葉にして言えれば、頭のなかでちゃんと出来ている、おおむね。
結局言語っていうのは、思考を写すための鏡であって、あくまで手段であって、思考そのもので無いわけです。そして、思考に有意な影響を与えるまでもない。別に、こんなの、あれですよ、サピア・ナントカの仮説(検索で飛んこられる可能性があって嫌なので片方を伏せるけど)に関わる何十年か続いた物凄い長い論争や、言語決定論者の出した証拠の多くが捏造だった事が明らかになたっとか、そういう面倒な話をしなくてもさあ、常識的に行ってそんな馬鹿なことが無いのは明らかでしょう、と思う。だってさあ、数学とか物理とか化学とか、ヒトという種族に許される限りで最も複雑な思考を要求されるものが(たぶん特に数学がそうなのだと思う)、結局言語を関係なく世界中の人に共有されていて、歴史中の人にも共有されているわけじゃないですか、言語に関係無くね。それは別に古代ギリシャ語であってもいいし、現存のヨーロッパの適当な言語でもいいし、ましてやこんなエキゾチックな島国で離されている言葉でもいい訳で、何の問題も無かったわけで、実際日本人だってノーベル賞取ったじゃないですか。関係無いわけですよ、そんなの。数学や科学ですら母語によって有意な影響を受けているとは思われないのに(英語を読むのに物凄く時間がかかるというのは、ちょっと別の話ですが)、それ以外の認識について有意な影響があると考えるのは、とても無理がある話なのだと思う。なんか、あれですね、逆に、アカデミックじゃない分野について、そういうことがあると思うでしょうか?それは逆に、少し考える必要があるのかもしれないですね。例えば、ナントカとかいう言語の(検索避け)話者は、言語に時制が無いので、未来や過去を認識出来ない、みたいな。それもなあ、ちょっとあまりに無い話ですよ、なさすぎる。時間っていう概念は、せいぜい動物にもあるわけですよ、霊長類には少なくともある。時間という概念を、人間と同じように認識しているか、というのは別として、それはちょっと分かりませんが、少なくとも時間という要素を使って動いているとしないと彼らの行動は説明がつかない。で、人間の時間という概念が、彼らのそれとは全く別のものである、と考えるのは、随分と不合理なわけなんです。生物っていうのはあくまで、今あるものを変化させることでしか進化しないですから。霊長類に時間の概念があって、それとは全く別にヒト固有の時間の概念が全く新しく独自に誕生する、そして言語がそれを支配する、なんて与太話は、ちょっとありそうにない。これは、時制に限った話でなくって、言語決定論に関わるどんなものでもそうです。
こういう書き方をする人は、正直今まで見たことがないんですが。
言語決定論に係る議論は、まずサピアという学者がいて、ナントカという学者がいて、こういう研究があって、言語の色の数がどうだとか、それをナントカカントカ学者が実験してみて、何ミリセカンドの単位では影響が見られるが、逆に言うとその程度の影響しか存在しない、つまり思考に十分な影響を与えているとは到底思われない、とか、ナントカという言語の話者は方向が分からないみたいな実験の結果は極めて悪質な捏造でした、とか、そういう話をするんですが、
なんか、もう、お前ら何やってんだろう、と思うんですね、個人的には。別にそれを定量的にデータとして取ってもいいけど、必要かもしれないけど、いや、普通に考えて結果は明らかだろう、と。勿論実際にデータを取ってみて普通に考えた結果を覆すようなものが何か得られればいいのですが、実際これについては得られることが無かったですし、まあ当然なんですが、得られそうもちょっと無いので。
結局文系っていうのが悪いのかなぁ、と思いますよ、本当に。だって、いや、実際理系の人がどういう風に考えてるのか、それはちょっとわからないんですが、だってヒトの脳にですよ、ヒトの脳を最大限abuseして、元々の脳の設計段階では到底想定されなかったような(もっとも脳に設計者なんてものがいればですが)ことを考えてるわけじゃないですか、現代の我々っていうのは。なんでこんな頭の使い方が出来るんだろう、これ原始人の状態じゃ絶対無理だよな、っていうものすっごい複雑なことをやってるわけじゃないですか、でその最大限に複雑な数学とか科学っていうのが全人類に共有されえてるわけで、だって日本語だよ?日本語っていうインドヨーロッパ語族に無いどころか何語族なのかも正直よく分かってないハイパーエキゾチック言語がだよ?こんな話者がインドヨーロッパ語族の人間しか科学史上存在しなかったようなところにこの数百年でいきなり突っ込んでトップレベルまで行ってノーベル賞まで取ったわけ、もうこの事実だけで構わないと思うんですよね、言語が思考に大きな影響を与えることが決して無いというのは。最もn=1(日本語)ですが。
バカバカしいなあと思うんですよ。嫌になってきますね。
研究者がクソ文系マインドでなかったらもっと楽だったろうなと思うことが何度も何度もありますね。
あの人達は科学史に無駄に詳しいくせに理系のお勉強が中学高校レベルで分からんので凄くトンチンカンなことをやってるんですね。最近心からそう思っています。私も人の事言えないんですが、人のこと言えないからこそ、ああ、これは、アレだ、って、思うことが多々ある。理系のお勉強に対する無知と無学から来る暴走だ、って。(「お勉強」と言っているのは、それくらい知ってて当然、というニュアンスです、だけどちょっと、そういうニュアンスにはならないなと、今考えると思う。)
したがって言語→認知の方向への影響はほとんどない、ぶっちゃけないと言って構わないレベルで小さいわけですが、認知→言語の方は大いに影響がありまして、というか無いわけがない、認知上の影響は文法を変えたりもしますね。じゃあ認知だけでいいかというと、そういうわけでもなくて、認知とは別に文法という箱をもう1個立てないとちょっと事実として説明がつかないだろいう、と。もし認知が文法の全てであるのなら、例えば日本語の、上一段動詞と五段動詞が存在するみたいな、これはもう全く説明がつかないわけですよね。上一段動詞に特徴的な意味とか、五段に特徴的な意味とか、そういうのは無くって、単に動詞ごとに決まってるだけだと。(私が上一段とか五段とかいう言葉が大嫌いなのは今は話しませんが。)あるいは人称変化とか。えっと、日本語は人称変化が無くって、英語も三単現の-sしかありませんが、他の言語では、全然そうではないです。例えば私の勉強したドイツ語では、ich-e, du-st, Sie-en, er/es/sie-t, wir-en, ihr-t, sie-tという、物凄いめんどくさい規則がついてまして、あのね、これ、代名詞を前から並べただけなんですけど、代名詞によって動詞の後ろにつく音が違うんですよ、全部。全部!!だから、Ich haisseですが、Du haisst, Sie haissen, Er haisst、みたいな、ものすっごくめんどくさい。で、これが何か認知と関係ありますか、と言われたら、無いですね。単にそうなってるだけです。
だから、認知とは別に、文法というところを立てなければいけない、それは、音と音の結びつきといった究極的に恣意的なレベルから始まって、単語の内部構造から、単語と単語をどう配置するのか、文はどのように組み上がるのか、その言語で離されている普通の文とは何か、特殊なものにどのような形や文法語が存在しているか、音はどのような基準で変化するのか、といった、非常に滝にわたって、ちょっと認知からは直接的には導き出せないような部分というのが、存在するわけですね。もっとも、問題があって、どこまでを文法で、どこからを認知で、という問題は、かなり厄介なことになります。しかし、認知とは別に文法を立てる必要がある、というのは、言語の構造全体を俯瞰し、それが単なる認知から派生されえないことを考えれば、これは明らかです。(ちなみにこれ全部を認知から無理やり派生させようと考えた人もいましたがあまりにも荒唐無稽で歪なものが出来たので空中分解しました。)
ですからね、ここではっきりさせておきたいのは、認知ナントカ学と、生成ナントカがやっている事というのは、決して対立するようなものではない、ということなのですよ。この二つは、単に、やりたいことが違うだけです。やっていることが違うだけです。見えない箱の中の、認知の中を見るのか、文法の中を見るのか、と。そして、その間にどのような相互作用があるのだろうか、と。「人間の言語機能を解明する」という点において、この二つは一つのはずです。はずだったんです。なぜだか分かりませんが、私は認知の方はさっぱりなので、あんまり詳しくは無いのですが、どんな本を読んでも、生成ナントカを、これでもかと、これでもかと、とにかくケチョンケチョンに叩き潰してやろうと、そういうチャプターが必ず用意されているんです。認知ナントカは、我々を、本当に目の敵にしている。それは嫌というほど伝わってくる。そして、そのチャプターに書いてあることが、たいていむちゃくちゃで、生成ナントカが何をやっているのかすらよく分かっていない。ある教授(彼は認知でも生成でもない)が発言した所によっては、「いやあ認知ナントカ額の人は本当に生成を親の敵のように思ってますからね、あっちの学会で生成を擁護するようなことを少しでも言うと周りから物凄い目で見られるそうですよ(笑)」とのことで、あと、「その点生成は良いですね。来るものはなんでも来いですから」と。
そうなんですね、生成の方は、割とそういう派閥間の対立とか、そういうのにむとんちゃくで、というかむしろ、今私がさっき書いた、「認知とうちは別のことを研究しているだけ」という意識がかなりあって、だから認知系の論文を普通に肯定的に呼んだりとか、そういう事は、こっちの業界では普通にあるんですよ。なんか、あっちでは無いらしいんですけどね。

言語学の話なんか、久々に長々としましたわけですがね、ああ、そうなんです、私は、私は、私はこういうことがやりたくって、私は、したかったんです、まあ、今は、素人さん相手にかなり適当なことを喋っておりますので、そういうアレですが、これも十分楽しいんですが、そんなことでなくって、もっと、もっと、言語の真髄を、精髄を、真理を、この世のただ一つ確からしいことを、神様を!そういう感じだったわけです、それこそ普通の人には何言ってるのか分からないようなこともいろいろやりましたよ。もう何も覚えちゃいませんが。辛い記憶は全部忘れました。それでも体は覚えてる。さておき、さておき、

私は翼をもがれている、私は、こういうことを考えることでしか生きていけないたぐいの人間だった、これだけが私の全てだったのだ、こういうことについて考えるのが、私の人生の全てだったのだ、だけど、それを、全て奪われたっ!で、自殺しようか、と。
再受験しようか、ちょっと前向きになってきた、よし、できる、がんばる、でもやっぱり不安です。
言語学っていうのは若い学問でして、現代的な言語学っていうのは生成にしろ生成以外にしろどこまでも1957年に始まったばっかりですんで、ある教授はこれを「現代科学最後のフロンティア」とおっしゃってましたね、本当にそのとおりだと思います。まずフロンティアですし、文系だと思われているせいか頭の良い人間はほとんどいない。ブルーオーシャン。ちょっと努力しただけで一番になれる。そんな世界。
だけどね、なんでしょう、言語学という学問が閑散としていたから私はそれなりにお話を頂いたわけでして、結局のところね、私は凡人というか、凡人以下なわけですよ。
そんな人間がね、理系っていう、ほら、小学生の頃からこれが大好きでずっとやっていて死ぬまでやりたいですみたいな、そういう人達がわんさといるところに放り込まれて、しかも5~6年年上ですよ?それで、どうにかなるかって言われたtラ、まあ、ならねーですよ。ならねー。私が一番だったのは、所詮言語学が、中身がどんなにしっかりしてても人の集まらない学問だったからよ。

だからなーあ、つらいなーって思うんですよ。合格したら合格したで劣等感に身を焼く事になるのだろうだなと、それで折り合いつけて、つけたころにはもう28か。普通の人間が、一財産築いて、人生の色んな大切なことを知り始めたころ。人に叱る時はどうやったらいいかとか、対人関係後か、飲み会のあしらいかたとか、プレゼンのやりかたとか、そういう、たいせつなことを、ぜんぶ終わった頃に、私はようやく、劣等感を克服して「人生を諦める」、そのためだけに20代を全部使うわけさ・・・・・・・・。なんだ???なんだ???って思うんだけど、ああ、自殺したいよなあ。

バイト始めようかな、バイト始めたら20代って感じがするんだ、いやそれ10代だろ、と思わなくもないが、20代を私は生きた、その思い出のために、バイトをしておく、それもいいかなと思う。

ああ17才とか言うの忘れた。まあえdももうズタボロだから仕方ないのよね。手だってほとんど動かんのだ。

まあそんなかんじです。やっぱり、泣いたら良くなりました。気分がとってもいいです。
言語学のことを話と気分がよくなるんでしょうね。
これからもうちょっと話しても良いのかな。

まあ、こんな記事は、読まなくていいですよ。読むもんじゃあないえdすから。結局私は感動を一つも用意しておけなかったのだし。失格ですね。伏線を回収出来ない。

それでもここまで読んでくれた誰かがいたら、死ぬほど嬉しいので、その時に限って拍手とか押してくれたら嬉しいのかも。

始める前は、これ加工、あれ書こうとかって、いろいろ考えていたはずなんだけど、結局、それ全部何も書かなくってl,言語学の話だけになっちゃったね。

好きだったんだね。

私と自殺について。

下手な人間が作ったクリッカーゲーと私が自殺に思っていることは凄くよく似ている。
できの悪いクリッカーゲーは、開始10分とかでゲームの基本メカニクスの全てを開封し終えてしまって、向こう何十時間も延々と投資施設と数字が増えていくのを苛々しながら眺めているだけになる。
これは本当につまらない。
なんでつまらないって、どれだけガワが変わってもずっと同じ作業の繰り返しだから。
同じ作業の繰り返し。
私はそれを、どうしても人生の中にも見出してしまう。
会社に勤めたら、日本という閉塞した社会に取り込まれて、一日中働いて給料をもらうだけのことが、この先延々とずーっとずーーーーーっと何十年も死ぬまで続く。何の進展も無いまま。
それはまるでクリッカーゲーの画面を苛々しながらずっと見つめているような。
何度想像しても耐えられない。

技術職に就ければよかったのかな、って思う。それなら、一生を通して成長があって、こんな事を考えずに済んだのかな、と思う。
でもそれには私が今いる場所は何の役にも立ってくれない。
やっぱり私は選択を間違えたね。

ゲームをやりながら、人と話しながら、小説を読みながら、街を歩きながら、いつでもどこでも何の前触れもなく『それ』は私の頭に現れて容赦なく世界を食い潰す。
無限に進展のある人生を送っている人間に対する、身を押し潰すような劣等感。
この劣等感は本当に業種を問わない。対象になるのは学部生や院生ですらない。絵師やプログラマーみたいなものまでありとあらゆる人間が対象になる。
そういう人を見る度に、何の比喩でも冗談でもなくて、本当に叫び声を上げる。
胸がぎゅっと潰れて胃酸と涙が込み上げてへなへなとへたりこんで頭を抱えて声を押し潰して泣き叫ぶ。
相手の業種も学歴も巧拙も年齢も何も問わない。
本当に何も問わない。
無限の進展がある人生に生きてるありとあらゆる人間がトリガーになる。
今一日にいったい何回悲鳴を上げているのか本当に分からない。

体を抱えて頭を落ち着かせようと必死になりながら、脳のメモリの片隅で同時にこんな事を考える。
私、こんなことになって、一体どうやって生きていったら良いんだろう。
そういう意味でも死ぬしかないんじゃないのかな。
希死念慮が加速する。

じゃあ趣味でも始めりゃいいじゃん、って話になるんだけど、
絵や小説は致命的に向いている気がしなくて、(特に絵は本当に駄目だ、)
それ以外の趣味ってだいたい専門的な教育機関が存在してて、(音楽なりプログラミングなり、)
それを受けていない私がやることはいくらやっても穴を掘って埋めているような気分がして、
もう、だめだ。

私は☓☓学に悪い意味で影響を受けすぎているんだ。
あまりにも頓珍漢な言説が世に蔓延っていて、相当きちんとした専門教育を受けない限りまともな事が何一つ言えないような世界。
独学が何の意味も成さない世界。
そんな中で3年半も生きてしまったせいで自分を教育してくれる専門家の存在なしに何かを始めることが全くできないでいる。
実際問題、こんなに整備されていないのが☓☓学くらいで、世の中のほとんどのものは独学だけでプロになれるくらいきちんとしているのかもしれないにしても。

これはやってみたら楽しいよ、意味とか考えないで無限に打ち込めるよ、みたいなのを大募集しています。最近いろんな事に手を出してはすぐにやめているので長続きしないかもしれないけど、私の人生を数時間だけ救えると思ってお願いします。

本当に最近劣等感で身が潰れそうです。
この劣等感は発動した瞬間に金属バットでぶん殴られたのかと思うくらい暴力的な威力で世界を吹っ飛ばすのでもはや「劣等感」なんて言葉で呼べるようなものじゃないのかもしれません。
ものの一瞬で叫んで泣き出しそうになります。本当に。それが一日に数えきれないくらいあって。

じさついがいにかんがえられることがないです

「売れないでいてほしい」

好きな作家には、売れないでいてほしい。
そんな傲慢な思い。

私はメンヘラだから、自分の悩みや苦しみがなにか特別なものであるという妄想をどうしても捨て去れない。
私の痛みを救い上げてくれるような小説を読むと、幸せで救われた気分になって、生きていてよかったと思えるけれど、同時に、その小説が現に売れているという事実が、たくさんの人がそれを読んでいるという事実が、自分の痛みは特別なものだという世界観に容赦なくヒビを入れる。
私の痛みは、私の人格は、私に見える世界は、特別な不幸を経験した人間だけに共有されうるようなものじゃなくて、ただの、量産品なのかなって。

小説に限らず、文章をちゃんと読んでいる人は少ない。
(傲慢さを低めて言えば、私と同じ感想を持つ人が少ない。)
読書メーターに寄せられる人々の感想を見るとそう思う。
だから、小説それ自体が売れていたとしても、読者それ自体の数がどんなに多くっても、殆どの人は私と同じように特定の小説に救われてはいなくて、痛みを救済されている人はとても少ないのかもしれない。
私の痛みは、やっぱり特別なままなのかもしれない。
だけど同時に、こんな疑念がどうしても拭えなくって、嫌な汗が出る。
確かに読書メーターを見たら、救済されていなさそうな人ばかりだ。
でもそもそも、読書メーターにコメントを長々と書く人達にまともな人間がいないだけなのかもしない……。
プロフィール

Author:ルーミア厨
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