私がインターネットに生を受けて約10年、絵師界隈の流れと西洋絵画史を見ながら思うこと

私は小さい頃から絵師様達が好きでした。念の為言っておくと矢口真里的なサムシングではなく、しょーがくよねんせいからずっとインターネットにいた人間なので本当に好きです。ちなみに私が小さかった頃がどのくらいの時代だったかというと、フィードやRSSという仕組みが無く、というかブログすら無かった時代なので、定点観測等に頼るか、さもなくば「お気に入り」欄の個人サイト群を上から順にポチポチポチポチして更新があるかどうかを1日数百サイト確認しなければならないような時代でした。pixivなんて当然ありません。

そんな私が2018年に来て思うのは、「うわぁまるでルネッサンスからラファエロまでとラファエロから印象派までとそれ以降の西洋絵画史を繰り返して更に一歩先に進化したみたいだぁ(直喩)」ということです。この日記でこれ以上説明もなく専門用語を使ったり学をひけらかしたりする気はありません。独り言だろうとなんだろうと、日記は常に誰にでも分かりやすいように書かれなければならないからです。

とりあえずインターネット上の絵師界隈の話をするために一旦、ダヴィンチ・ミケランジェロ・ラファエロに至るまでの話をしましょう。以下は全て5年以上前に読んだE・H・ゴンブリッチ『美術の物語』のうろ覚えの記録なのでガッバガバですし興味のある人はちゃんとそっちを読みましょう。

原始時代は無視して、古代ギリシャ、古代ローマから話を始めます。その頃の作品で残っているのは建築と彫刻が主ですが、その荘厳美麗さたるや凄まじく、写真で見ているだけで見た人間を圧倒するようなオーラを放つ存在レベルがあります。そしてお馴染みの暗黒の中世が始まり、古代ギリシャ・ローマの叡智は人類から失われ、悪い意味で子供の落書きのような絵が約1000年描かれ続けることになります。

そんな中ルネッサンスの萌芽が始まり、まずジョットにより遠近法が発掘されます。ジョットの流れを汲んだマザッチョが遠近法を再発展させるのですが、遠近法がどれほど衝撃的な技術だったかといえば、うろ覚えの孫引きによれば、このページで見られるマザッチョ『聖三位一体』に至っては、当時の聴衆を大変 "困惑" させたそうです。絵の中に奥行きを描けるという事実はジョット・マザッチョ以前において全く当然のものではなかったのです。狐につままれたような顔で直接絵に触って本当に奥がないのかどうか確かめる人間までいたとかなんとか。記憶があやふやなので信じてほしくないですが。

さて遠近法を始めとして、古代の技術、ガンガン発掘されまくります。それはもうガンガンガンガンギンギラギンにさりげなく発見されていきます。とめどなく見つかりあるいは生み出され、1世紀が経過する頃にはもうオリジナルを越えたレベルまで進展する技法がチラホラ現れ始めます。止まるんじゃねえぞと怒涛の勢いで絵画の技術は進展を極め、時代は遂に画家としての生涯を幸福に終えられた最後の3人、ダヴィンチ、ミケランジェロ、そしてラファエロに辿り着きます。ミケランジェロの作品には彫刻が多いのですがそれは割愛します。

問題は彼ら3人の作品のどこかにあったのでなく、また彼らが特定の何かを生み出したということにもありません。

単に稀代の天才と努力家達によって、「これまでに開発された技法全てを習得するのに必要な時間」が「人間の人生の全ての時間」を徐々に上回り始めた。そのギリギリ最終地点がラファエロだった。それだけの、たったそれだけの、数学でも物理でもあるいは現代のどんな分野でも起こるひどくありふれた話なのです。

しかしながらそれは、写実を主とする西洋美術にとってあまりに致命的な事でした。

ラファエロ以降、「色彩と光の時代」と美術史家ゴンブリッチが呼んだ、「生涯を賭けて色彩を極めるか光を極めるかを選択する時代」、言い換えれば、「存在する全ての写実的技術を習得することが不可能になった時代」に西洋美術は突入していきます。神が創造しなさった美しい世界に対して人間が編み出した紛い物の写実性の中さえもう誰も極点にたどり着けないことを当時の画家は皆知っていました。しかしながら、それでもだましだまし数世紀はやっていったのです。いやまあ、そこそこ写実的だからこれでいいじゃん、と。

そのような欺瞞を完全に、修復不可能なレベルで情け容赦無くぶっ壊してしまったのが印象派、及びモダンと呼ばれる人間達です。

印象派が彼らの作品を以て指摘した事はぶっちゃけて言えばこうです。
「自分の絵が写実的とかお前サバンナでも同じこと言えんの?俺らもうなんとなくで自分の好きな技法をテキトーに選択してるだけで究極の写実性には永遠に辿り着けねえじゃん。そんな事より見た人間が感動するかどうかを考えたり俺らがどう世界を認識してるかを表現する方が重要じゃねえ?」と。

実は印象派以前にも無意識的に同じことをした人間は一人だけいました。エル・グレコです。彼の絵は今普通に見れば「昔の西洋美術の絵画っぽいな」と思うかもしれませんが、彼の1世代前であるダヴィンチラファエロと比べれば、エル・グレコの絵があまりにも写実性を崩してインパクトを重視していたことは一目瞭然でしょう。そして彼は無名の画家として死にました。生まれるのが数百年早すぎたのです。

さておき、こうして印象派が誕生するのですが、彼らの絵はぶっちゃけて言えば下手です。Wikipediaのページでも貼っておきますが、確かに綺麗ではあります。しかしながら、はて、これらの絵は目に馴染みはしますしなんとなく良い感じもしますが、ダヴィンチやラファエロの作品と比べた時に果たして「上手い」と呼べるでしょうか。むしろ技術を放棄して大衆に媚びているとか、勉強と訓練が面倒だから父さん見た瞬間の第一感だけで食っていこうと思うんだとか、そういう印象を受ける人間が当時多かったことは想像に難くないでしょう。現代の私達からどう見えるかの話はしていません。当時どう見えたかを話しているのです。
実際、有名な話ですが、「印象派」というのは蔑称であり、彼ら自身から最初に名乗ったものではありません。これは旧来の写実性を主とする画家から、「あいつらがあんな妙ちくりんな絵を描いているのは自分の天才性や狂気性をひけらかしたいだけだ」「あいつらが描いているのは(神が創造なされた)本物の美しい宇宙ではなく見た瞬間の『印象』だ」と批判を受けたのが『印象派』という単語の始まりです。実際問題旧来の画家と比べれば彼らは技術の面で本当に絵が下手でしたし、一般人からの評判も当初は良くなかったのです。

ただ歴史を振り返ってみれば、そのような批判自体がそもそも的を得ていないと言わざるをいません。何故なら目に見える美のために写実性を敢えて崩すことは何百年も前に行われており、また名画として現代にすら、あるいは当時にすら残っていたからです。
ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』がその代表例ですが、中央に描かれたヴィーナスの肩周りや首周り、そして左腕と胴体の連結部分が極めて不自然なのは注視すれば分かるでしょう。そしてここまで不自然な絵を描いて尚、注視しなければデッサンが崩れているのに気付かないくらい調和の取れた構図を生む事にかけて彼は天才だったのです。
そしてボッティチェリの上の作品に触発されて描かれたのがラファエロ『ガラテイア』です。こちらはデッサンの崩れこそ見られませんが、デッサンの崩れた絵に触発された事自体、ラフェエロが構図というものに対していかに比類なく重きを置いていたかがよく伺える作品です。
このような方向性はそもそも有り得た可能性でした。

さて翻って印象派の誕生当時、かたや「写実的」と言い張りながら写実性の神々の作品を浅薄にしか理解せず、因習に縛られて特定の嗜好しか描けなくなくなった画家達、かたや慣習の意味自体をじっくり考えてそれが無意味であると見抜き、どんな批難や困難を受けようとも因習を勇敢にも放棄する事に成功した画家達、最終的にどちらが勝利を収めたのかは、ありとあらゆる分野の因習紛争でそうであるように、歴史が証明し現代の我々が知るところでしょう。

そしてこの後ピカソとかが現れて西洋絵画はどんどんどんどん傍目には理解不能になっていくのですが、そりゃそうです。西洋絵画の印象派以降において、全ての作品は一世代前の流行に対する思想的なカウンターであり、絵単体を見て上手いか下手かで評価する行為は最早意味を持ちません。歴史の中に置いてしか意味を持たなくなったのが印象派以前と以降の決定的な違いなのです。




話が逸れました。

絵師界隈の話でした。

今世界を見てどうでしょう。

私が幼い頃、絵師界隈(※というより私が東方厨だったので東方の絵描き界隈)の技術レベルは、あまり高くありませんでした(貶めているのではありません、彼らの絵は趣味ですし)。当時は母数が多くなかったからやっていけただけで、今出したら3favもつかへんやろなぁみたいな絵を載せているサイトが普通に中堅レベルだったのです。
しかしながら同時に、人体デッサンをガッチガチにやってきて、「上手い……」と息を呑むことしか出来なくなるような作家が存在していたことも事実です。そのような絵師はヒエラルキーの最上位にいました。印象派以前の西洋絵画の世界がそうだったように。

時代は流れ、pixivが生まれ、twitterが誕生し、遂に絵師達に商業のお仕事の依頼まで来始めます。
しかしながら昨今、何かお仕事をもらったり商業で漫画を描いている絵師って典型的にどんなタイプでしょうか。ちょっと想像してみてください。
それは人体デッサンが究極的に上手い人でしたか?多分違いますよね。
「技量はそこそこで良いから、独特の個性を持った作家」ではなかったでしょうか。AC部、地獄のミサワ、あとポプテピピックなんかが極端な例では代表的だと思います。あと私はヘルシングが病的に好きですが、あれもやはり上手いのではなく個性が強い作品(作家)です。
最早現代は、西洋美術史のラファエロ~印象派の時代よろしく、「上手いだけならいくらでもいる」という時代に突入しつつあるのです。まるで印象派以後のように。
絵の巧拙より独特の画風や芸風があるかどうかの方が遥かに重みを持つ時代に2018年は突入しているのです。最強の写実性と綺麗さを以て『デスノート』で大成功を収めた小畑健ですら、『バクマン』で大幅にキャラを崩しているのですから。

しかしながら、しかしながらも、
twitterで万単位のRTとfavを受ける絵がどんな絵なのか、そして仕事の数こそ多くなくとも万単位のフォロワーを有す典型的な本当の神絵師と言われた時に、貴方はどんな画風を思い浮かべるでしょうか。
きっと貴方はミケランジェロが如く人智を超えた技量を持った絵師達や、あるいは見ただけで息を呑むような、それこそ西洋絵画史の数々のようなものを想像したでしょう。

今私達は西洋絵画の歴史を繰り返して、しかも西洋絵画が辿り着けなかった更にその先の時代にいるのです。
写実性でガチガチに硬めた絵と、写実性を放棄して印象を重視した絵と、あるいは何かしらの思想が込められた絵。その全てが同時に評価されるという時代は過去において一度も訪れなかった。当時において絵描きであるということはメインストリームでなければ絵に値段がつかず死ぬ事を意味していたからです。
2018年、私達は上の全てが評価され、かつ生きていけるという極めて特殊な時代に生きています。

それだけではありません。絵を描くためのソフト等も進化し過去出来なかった表現が可能になり、また技法を学ぶための時間も大幅に短縮されました。あるいはある種の技法においてはそれ自体がソフトに任せられるようになりました。

これは印象派以降において、恐らく絵画史上始めて時代に訪れたことなのです。

我々は一度、インターネットという世界において、西洋絵画史の印象派までの繰り返しを見ました。そして時を経て、印象派の誕生と同様の現象と、それどころかその先の誰も見たことのない新たな世界の扉を開こうとしているのです。
5年後のインターネットにおいて絵画──あるいは絵──がどのような扱いを受けるようになっているのか、私は楽しみで仕方がないのです。

もっとも私があと5年、生存することに成功すればの話ではあるのですが。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ルーミア厨

Author:ルーミア厨
えへへ

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR